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2014年1月18日 (土)

四天王寺(その9折口信夫の小説「身毒丸」1)

知られざる四天王寺

その9 折口信夫の小説「身毒丸」1

はじめにお断りしておかねばならないが、折口信夫の小説「身毒丸」は古い文体であり、私たちには読みづらいので、私なりに読みやすいように少し書き換えた。もし間違っているところがあるとすれば、その文責は私にある。なお、できるだけコメントを書くように努めたので、できるだけコメントを読んでもらいたい。では始めよう!
身毒丸(シントクマル)の父親は、住吉から出た田楽師であつた。けれども、今は居ない。身毒は折々その父親と死別したときの容子を思い浮べて見る。身毒はその時九つであつた。
住吉の御田植神事(オンダシンジ)の外は旅回りで一年中の生計を立ててゆく田楽法師の子どもは、よたよたと一人あるきの出来だす頃から、もう二里三里の遠出をさせられて、九つの年には、父親らの一行と 大和を越えて、伊賀伊勢にかけて、田植能の興行に連れて行かれた。信吉法師という彼の父は、配下に15~6人の田楽法師を使っていた。身毒は、朝の間、馬などに乗らない時 は、疲れるとよく若い能芸人の背中に寝入つ た。そうして代わりばんこに皆の背から背へ移つていつた。時おり、うす目をあけてところどころの山や川の景色を眺めていた。ある所では歩くにつれて見えてくる青草山には躑躅(つつじ)の花が燃えていた。ある所は、広い河原に幾筋となく水が分れて、名も知らぬ鳥が無数に飛んでいたりした。そういう景色の一つに、模糊(もこ)とした羅衣(うすぎぬ)をかづいた記憶のうちに、父の姿の見えなくなつた、夜の有様も混じっていた。(岩井國臣のコメント:模糊(もこ)とした羅衣(うすぎぬ)をかづいた記憶・・・おぼろげな記憶を文学的に表現するとこういう言い方になる)
その晩は、更けて月が上(ノボ)つた。身毒は夜中(ヨナカ)にふと目を醒ました。見ると、信吉法師が彼の肩を持つて、揺ぶつていたのである。
「おまへにはまだ分るまいがね」という言葉を前提に、かれこれ小半時(こはんとき)も、まだ分別のない身毒を相手に、滞りがちな涙声で話していたが、大抵は覚えていない。この頃になつて、それは、遠い昔の夢の切れ端のようにも思われ出した。ただこの前提が、その時、少しばかり目醒めかけていた反抗心をそそったので、はつきりと頭に染み付いたのである。その時50才を少し出ていた父親の顔には、二月ほど前から気味わるいむくみが出ていた。父親が姿を隠す前の晩に到着していた奈良はづれの宿の風呂の上り場で見た、父の背を今でも覚えている。蝦蟇(がま)の肌のやうな、斑点が、膨れた皮膚に隙間なく現れていた。
「とうちやんこれは何(どう)うしたの」と咎(とが)めた彼の顔を見て、返事もしないで顔を曇(くも)らしたまま、急に着物をひつ被つた。記憶を手繰つていくと、悲しいその夜に、父の語つた言葉がまた胸に浮ぶ。
父及び身毒(しんとく)の身には、先祖から持ち伝へた病気がある。そのために父は得度(とくど)して、浄い生活をしようとしたのが、ある女のために堕(お)ちて、田舎聖(いなかひじり)(注4)の田楽法師の仲間に投じた。父の居つた寺は、どうやら書写山(注5)であつたやうな気がする。それだから、「身毒も法師になつて浄い生活を送れ」と父は言ったように、やや世間の見え出したこの頃には、身毒はあれこれ考えながらそう思うようになっていた。ただ、身体を浄く保つことが、父の罪滅しだといふ意味であつたか、血縁の間にしぶとく根を張つたこの病を身毒の代に絶やすためだというたのか、朧気(おぼろげ)な記憶は心のままにどちらにも傾いた。(岩井國臣のコメント:父の罪滅ぼしのためなのか、それとも子孫のためなのか、そのどちらのために清浄な生活をしろと父は言っていたのか、身毒の心は揺れ動いていた。)
身毒は、住吉の神宮寺(注6)に附属している田楽法師の瓜生野という座に養われた子方で、住吉の遠里小野の部領(ことり)の家に寝起きした。(岩井國臣のコメント:部領(ことり)というのは集団の統率者のこと。事(こと)を執る(とる)からきている。中には左衛門尉(さえもんのじょう)という格式の高い人もいた。)

この仲間では、12~3才になると、用捨なくごしごし髪を剃つて、白い衣に腰衣を着けさせられた。ところが身毒ひとりは、この年17才になるまで、剃らずにいた。 身毒は、細面に、女のやうな柔らかな眉で、口は少し大きいが、赤い脣(くちびる)から漏れる歯は、貝殻のやうに美しかつた。額(ひたい)ぎわからもみ上げへかけての具合、剃ってしまうには堪へられない程の愛着が、師匠源内法師の胸にあつた。今年は、今年はと思いながら、一年延しにしていた。そして、毎年行く国々の人々から唯一人だけ、この美しい若衆はもて囃されていた。牛若というたのは、こんな人だつたらうなどいう評判が山里の女達の口に上つた。

注4:田舎聖(いなかひじり)
聖なる旅芸人のこと。『万葉集』には「遊行女婦」として記載があり、古くは巫女舞などによる宗教の伝播に際して行脚中の巫女が舞う宗教芸能として扱われた。奈良時代から平安時代にかけては遊女として芸能一般に従事する女性を指した呼称であったことが更級日記にて語られている。平安時代末期から鎌倉時代にかけては白拍子などが有名である。『平家物語』巻ノ一「祗王」では「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである。初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた」と解説している。
身分制度の厳しかった江戸時代において、芸人は蔑まされる存在ではあったが、旅の制約のあった一般庶民と違い、旅芸人は関所手形を持っていなくても、芸を見せて芸人であることを証明できれば、関所を通過することができた。定住を基本とする共同体においては、旅芸人のような漂泊する者は異端であり、そうしたマレビトの来訪は、神であり乞食の来訪として、畏敬と侮蔑がない交ぜとなった感情を生じさせた。明治以降も旅芸人は季節の折節に村々に現れては芸能を見せ、日本人の暮らしの季節感を彩る存在だった
田舎聖という言い方は、田舎回りをしている旅芸人のマレビトとしての性質のうち神としての性質に焦点を当てた言い方である。折口信夫は、「しんとく丸」らの田楽師のそういう側面に光を当てているのである。

注5:書写山
http://www.shosha.or.jp

注6:住吉の神宮寺・・神宮寺は今はないが、その名残として、住吉大社に神宮寺の住吉踊りが伝わっている。
http://sumiyoshi-odori.com/





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