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2014年1月22日 (水)

四天王寺(その13折口信夫の小説「身毒丸」5)

知られざる四天王寺

その13 折口信夫の小説「身毒丸」5

さあ、これを血書するのじゃぞ。いささかも汚れた心を起すではないぞ。冥罰を忘れるなよ。
身毒はこれまでに覚えのないほど、憤りに胸を焦(こが)した。しかし、それは師匠の語気におびき出されたものに過ぎない。心の内では、師匠のことばを否定することは出来なかつた。経文を血書している筆の先にも、どうかすると、長者の妹娘の姿がちらついた。あるときは、その心から妹娘を攘(はら)い除けたような、すがすがしい心持 ちになることもある。しかしながら、心の隙間には朧気(おぼろげ)な女の、誰とも知らぬ姿が入り込んで来た。最初の写経は、師の手に渡ると、ずたずたに引き裂かれて、火桶に投げ込まれた。身毒は、再度血書した。それが却(しりぞ)けられたときに、三度目の血書にかかつた。その経文も穢(けが)らわしいというひとことのもとに庭に投げ棄てられた。
連夜の不眠に、どうかすると、筆を持つて机に向つたまま、目を開いて睡(ねむ)つた。そうした僅(わづ)かの間にも、妹娘や見も知らぬ若い女の姿がわり込んで来る。
四度目の血書を恐る恐るさし出したときに、師匠の目はやはり血走つていたが、心持ち柔いだ表情が見えて、
『人を恨むじゃないぞ。危い傘飛びの場合を考へて見ろ。若し女の姿が、ちよつとでもそちの目に浮んだが最後、真倒様(まっさかさま)だ。否(いや)でも片羽(かたわ)にならねばならぬ。神宮寺の道心達(仏門に入った人たち)の修業も、こちとらの修業も理(ことわり)は一つだ。』・・・と師匠は言った。
写経のことには一言も言い及ばなかつた。そして部屋へ下つて、一眠(ひとねむり)せいと命じた。経文は膝の上にとりあげられた。執着に堪へぬらしい目は、燃えたちそうな血のあとを辿つた。

(岩井國臣のコメント:師匠・源内法師の心境:「執着に堪へぬらしい目は、燃えたちそうな血のあとを辿つた。」というのはどういうことを言っているのか? 執着に堪へぬらしい目とは、どうしてもこだわらざるを得ない師匠の目という意味である。では、師匠は何にこだわっているのか? 源内法師という身毒の師匠は、自分にも厳しくまた身毒にも大変厳しい人であったらしい。本当の理想的な師匠というのは、自分の弟子に自分の持てる技術のすべてを伝えるためには、当然、弟子を甘やかしていてはだめである。特に、これと見込んで自分の愛情をそそぐ弟子にはそうでなければならない。源内法師は、身毒の父からの遺言とでも言うべき願いを知っているので、身毒には特別の愛情を注いでいた。したがって、先に折口信夫が書いているように、身毒の「起ち居につけて、暫くも看視の目を放さなかつた」のである。師匠の目には、身毒は頭を剃って以来、どうもうはうはしていて、稽古に熱が入っていない。摂州石津の念仏踊りの際にも、身毒は、とんでもない事に、女についての雑念のために、本来の踊りを続ける事ができなかった。プロの芸とは、無心でやってはじめて素晴らしい芸ができるのである。それがプロの芸能者のあるべき姿である。瞬間瞬間を無心で立ち向かなければならないのである。ひとときたりとも雑念が入ってはならない。人の前で自分の芸をやるときは、「無心で立ち向かう」ことが肝要なのである。それでは、身毒がそれを悟るにはどうすれば良いか? そこで源内法師が考えたのは、「龍女成仏品」の写経である。しかも、血書として書くのである。だから、源内法師の命じた写経は普通の写経ではない。死ぬ覚悟で行う写経なのである。書道というものは、その時々の書き手の気持
ちが字の上に表れるものらしい。源内法師は、身毒の写経をみて、最初は全く気に入らなかった。折口信夫は、『 最初の写経は、師の手に渡ると、ずたずたに引き裂かれて、火桶に投げ込まれた。身毒は、再度血書した。それが却(しりぞ)けられたときに、三度目の血書にかかつた。その経文も穢(けが)らわしいといふひとことのもとに庭に投げ棄てられた。』・・・と書いている。しかし、四度目になって、はじめて源内法師は、身毒の血書の写経を受け取り膝の上におくのである。そして、なんとしても身毒を奥義を究めた芸能者に育て上げたいという「こだわりの気持ち」を抱きながら、その血書をじっと見つめるのである。折口信夫は、身毒が四度目に書き上げた筆跡を「燃えたちそうな血のあと」と書いている。)



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