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2013年12月21日 (土)

孫文(その6孫文と中華人民共和国2)

孫文
その6、孫文と中華人民共和国 (2)

宣統帝退位後の1912年2月13日、孫文は辞表を提出し、臨時参議院に対し袁世凱の大総統就任を推薦した。2月15日、臨時参議院は袁世凱の第2代臨時大総統就任と南京を首都とすることを承認、3月8日には『中華民国臨時約法』を制定した。
3月10日、袁世凱は北京で中華民国第2代臨時大総統に就任、この直後より諸外国からの政府承認が中華民国に行われた。袁世凱は北京兵変を理由に北京に遷都している。
袁世凱の就任後強力な中央政府の保持に努め、一部革命メンバーによる各省の分離独立の動きを阻止している。同時に袁世凱は積極的に列強との間にモンゴル及びチベットに対する主権承認交渉を行っている。
これより1928年までの期間を「北洋時期」と称し、当該期間内の中華民国政府は「北洋政府」と称される。
1913年2月、『臨時約法』の規定に従い、中国史上初めての国会選挙が実施された。選挙の結果は中国国民党が第一党の地位を占め、宋教仁を総理大臣とする内閣組閣準備が進められた。しかし3月20日、宋教仁が上海で暗殺された。この暗殺の背景には袁世凱の指示があったことから、7月には孫文により第二次革命が計画され、袁世凱に対する武装蜂起が実行されたが、程なく鎮圧されている。第二次革命を阻止した袁世凱は自ら皇帝を自称しようとしたが、支持を得られずに失敗し、間もなく病死した。袁世凱の死後、中国は軍閥割拠となり、孫文は広州で護法政府を組織し(第三次革命)、中国の政治情勢は分断と動乱の時代に突入した。

孫文の二回の護法運動は、軍人の支持により開始されたものであったが、軍人の支持を失うことで失敗に終わった。護法運動の後、孫文は、自分で軍隊を創設し革命を進めるようになった。連ソ容共政策が開始され、1923年1月26日、上海における孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明は中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約した。孫文・ヨッフェ宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿いながら中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年中国に入り、孫文の主要な顧問となった。ボロディンの進言により1924年、中国国民党に中国共産党員を受け入れる第一次国共合作がなされ、黄埔軍官学校も設立された。護法運動の理念は、強化された中国国民党の軍事力を背景に、最終的に、蒋介石の北伐で結実することになった。
護法運動(ごほううんどう)は、1917年から1922年にかけて孫文の指導の下、中華民国北京政府の打倒を図った運動のこと。中国国民党の歴史の中では「第三革命」とも称される。ただし、日本では護法運動と第三革命は必ずしも同義ではない。

国共合作を行った孫文は大正13年(1924)に日本の神戸高等女学校で有名な「大アジア主義」の講演を行なったのち、北京に戻って肝臓がんで死去した(1925[大正14])。そのとき、孫文は遺言で墓を南京郊外の紫金山に指定し、そこに葬られた。

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