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2013年12月17日 (火)

孫文(その2孫文と犬養毅ら)

孫文

その2 孫文と犬養毅ら

孫文は、清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年1月、ハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。1902年、日本人の大月薫と駆け落ちに近い形で結婚した。1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言ってきた。同年、宮崎滔天らの援助で東京池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。
孫文は日本亡命時に「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている。

ところで、先にも述べたように、憲政常道による議会政治が始まったのは大正十三年(1924年)であって、それから八年間は民政党、政友会の二大政党が交互に政権を握るという、憲政常道による議会政治が確立したかの加く見えた。 しかし、昭和7年(1932年)5月に5・15事件が勃発し、犬養毅が、首相官邸において、白昼、軍人によって暗殺された。犬養毅は憲政常道による議会政治の最後の首相となったのである。 それからは日本は軍人に依る恐怖政治が行われ、遂に東条英機という首相を生み出すのである。

第二次若槻内閣の後が犬養毅内閣である。加藤高明と若槻禮次郎は憲政会総裁、田中義一と犬養毅は立憲政友会総裁、濱口雄幸は立憲民政党総裁であった。これらの総理大臣は、選挙で選ばれて総理になった人たちであるので、一応、国民の代表であったと言い得る。そのような民主的な政党政治の最後の総理大臣が犬養毅であって、彼の考えはある意味で国民の考えでもあったのである。だから、犬養毅が「孫文」を支援したということは、当時の国民の意思でもあったといってもけっして言い過ぎではないと思う。私達はこのことをけっして忘れてはならないであろう。歴史的な経緯から多少の行き過ぎがあったとしても、その都度、軌道修正をして、「孫文」を支援するという犬養毅の考えを貫いておれば、日中関係の歴史は間違いなく今とは変わったものになった筈である。何故犬養毅の考えを貫くことができなかったのか、大いに反省すべきことではなかろうか。

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