« 孫文(その4孫文とソ連) | トップページ | 孫文(その6孫文と中華人民共和国2) »

2013年12月20日 (金)

孫文(その5孫文と中華人民共和国1)

孫文
その5 孫文と中華人民共和国(1)

孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。
1905年に中国同盟会が創設されたときに「韃虜の駆除・中華の回復・民国の建立・地権の平均」の「四綱」が綱領として採択され、孫文はこれを民族(韃虜の駆除・中華の回復)・民権(民国の建立)・民生(地権の平均)の三大主義と位置づけた。そして1906年に「四綱」を「三民主義」へと改めた。すなわち、三民主義は1906年に孫文が発表した中国革命の基本理論であり、のちに中国国民党の基本綱領として採用され中華民国憲法にその趣旨が記載されるに至ったものである。孫文は、三民主義の一つに民族主義を掲げ、秦以来万里の長城の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族の清朝が倒れると、清朝の版図である満州やウイグルまで領土にしたくなり、民族主義の民族とは、漢とその周辺の五族の共和をいうと言い出した。しかし、この五族共和論は、すべての民族を中華民族に同化させ、融合させるという思想に変貌する。1921年の講演「三民主義の具体的実施方法」では「満、蒙、回、蔵を我が漢族に同化させて一大民族主義国家となさねばならぬ」と訴え、1928年には熱河、チャハルのモンゴル族居住地域、青海、西康のチベット族居住地域をすべて省制へと移行させ、内地化を行うという政策に変わってく。

さて、武昌起義によって、1911年10月11日午前、武昌全域が決起軍の支配下に置かれ、夜には謀略処が設置された。起義とは義のために立つという意味で、中国の維新のための武装蜂起のことを言う。武昌起義(ぶしょうきぎ)または武昌蜂起(ぶしょうほうき)は、1911年10月10日に中国の武昌で起きた兵士たちの反乱。辛亥革命の幕開けとなる事件である。
さらにその後もさまざまな武力衝突があったが、遂に、12月2日、革命軍は南京城を攻略、これにより長江以南の地域はすべて革命軍の支配下に置かれることになった。そして同日、イギリス駐漢口領事館の斡旋により革命軍と清軍の間で停戦協定が成立した。
12月28日、南京で臨時大総統選挙予備会議が開催され、29日に臨時大総統選挙が実施された。臨時政府組織大綱第1条で「臨時総統は各省都督代表がこれを選挙し、投票総数の3分の2以上の獲得で当選とされ、投票権は各省1票」と規定されていた。選挙に参加したのは直隸、奉天、山東、山西、河南、陝西、湖北、湖南、江西、安徽、江蘇、浙江、福建、廣東、廣西、雲南、四川の17省45名の代表であり、孫文は17票中16票を獲得し、中華民国初代臨時大総統に選出されたのである。
1月20日、民国臨時政府は袁世凱に対し、皇帝の退位と優待条件を提示、1月22日に孫文は袁世凱が宣統帝の退位に賛成するのであれば自らは大総統職を辞任し、袁世凱の就任を要請する声明を発表した。地位が保証された袁世凱は清朝に対する圧力を強め、慶親王奕劻と那桐への政治工作、隆裕太后の寵愛を受けた太監である張蘭徳に賄賂工作を行い、「時局の大勢は既に決し、もし革命軍が北京に到達すれば皇帝の生命の確保もおぼつかないが、退位することで優待条件を受けることができる」と退位を勧めた。
1月29日、清朝は朝議により宣統帝の退位を決定、2月3日には隆裕太后は袁世凱に全権を委任し、民国臨時政府との皇帝退位条件の交渉に当らせた。
2月6日、臨時参議院は皇帝退位のための『優待条例』と張謇が起草した『退位詔書』を承認した。承認された優待条件は下記の通りである。
1.    大清皇帝尊号は今後も使用可能であり、民国政府により外国君主と同等の待遇を受ける。
2.    民国政府は毎年400万元を皇帝に支出する。
3.    皇帝は暫時紫禁城に居住し、後に頤和園に移る。
4.    清室の宗廟は民国政府により保護を受ける。
5.    光緒帝王の崇陵建設費用は民国政府が支出する。
6.    宮廷内の雇人は継続して雇用される。
7.    皇室の私有財産は民国国軍により保護される。
8.    禁軍は民国陸軍に編入する。
2月12日、清朝内閣総理大臣袁世凱等の内閣勧告により宣統帝の母后である隆裕太后は清皇室への優待条件を受け入れ、『退位詔書』を発布、清朝最後の皇帝、宣統帝の退位と袁世凱が組織する共和政府への権限移譲が行われた。この時に、有期限の元号は廃止され、1912年を元年とする無期限の民国紀元(中華民国暦)が施行された。『退位詔書』は張謇により起草、臨時参議院を通過したものである。しかし袁世凱により全権組織された共和政府という表現は袁世凱により追加されたものである。これにより清朝は死滅し、2000年以上続いた帝政は終に廃止されたのである。

« 孫文(その4孫文とソ連) | トップページ | 孫文(その6孫文と中華人民共和国2) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/54318967

この記事へのトラックバック一覧です: 孫文(その5孫文と中華人民共和国1):

« 孫文(その4孫文とソ連) | トップページ | 孫文(その6孫文と中華人民共和国2) »