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2013年11月21日 (木)

明日香の道教遺跡(その7山形石と石人像・・要点)

明日香の道教遺跡
その7 道教思想の顕われ・山形石と石人像(要点)

今まで、第1項の「道観・両槻宮」では、斉明天皇によって建立されたその場所・多武峰を探るとともに、両槻宮の持つ道教的な意味を説明してきた。この第2項では、斉明天皇のつくった不思議な石像、山形石と石人像について、それが持つ道教的な意味について説明する。まずは、斉明天皇のつくったその石像について、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)でどのように述べているか、それを見てみよう。「日本の道教遺跡を歩く」では次のように述べている。すなわち、
『 斉明天皇が道観を建てたことは明らかであるが、皇極・斉明紀にはほかにも天皇が道教思想に通じていたことを示す記述がある。皇極紀元年(642)、天皇は南淵(みなぶち)(明日香村稲淵)の河上に行き「跪(ひざまず)きて四方を拝み、天を仰ぎて祈(こ)ひたまひし」とある。この四方拝も道教の祈拝の一つである。』
『 そのほかには明日香村石神の石神遺跡(須弥山遺跡)から出土した二つの石造物である。男女が抱き合う形の石人像と三つの石を重ねた山形石である。明治35年6月に、水田の中で見つかり、東京帝室博物館に送られ、倉庫の片隅でほこりまみれになっていた。昭和11年春、当時、同博物館にいた石田茂作氏がそれに気付き、「奈良時代出土品展覧会」に出陳して以来注目されるようになった。その展覧会中に、出土地の地主である辻本定四郎氏が来訪して、石田氏に発掘を以来、5月から二週間現地調査をした。その結果、庭園に関係する遺物であろうと見通しを立てた。その後、昭和50年代に奈良国立文化財研究所が、付近を数次にわたって発掘、建物や庭園遺構を確認している。おそらくは、斉明朝頃のものではないかと見られており、山形石の石人像はまぎれもなく、その池のためにつくられたものであることが明らかになった。』
『 この石造物の一つ、山形石は、斉明天皇が化外の民をもてなす時に作った須弥山像ではないかという説が戦前からいわれており、「須弥山石」の別名がある。「日本書紀」の斉明紀には、須弥山について次のような記録がある。①斉明三年(657)7月、須弥山の象を飛鳥の寺の西に作り、また盂蘭盆の会(え)を設けき。暮(よる)、吐噶喇(とから)人に響(あ)えたまひき。ある本に曰く、堕羅人(たらのひと)なりといへり。②斉明五年三月、甘樫丘の東の川上に須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷(えみし)を響へたまひき。③斉明六年五月、石上池の辺に須弥山を作り、高さ廟塔(とう)の如し。以ちて粛慎(みしはせ)47人に響へたまひき。 山形石を須弥山と考える人は、以上の三カ所の須弥山のうち②が位置的にも石神遺跡と一致するのではないかと見る。』
『 その須弥山である。これは何を表現しているのか。従来は仏教的世界観の中心にある山とのみ解釈してきたが、むしろ道教的世界観にもとづいた聖なる山、崑崙山を表していると考えられないであろうか。道教教典の「雲笈七籤(うんきゅうしちせん)」の巻21によると「三界図に云う。其の天の中心、皆崑崙有り。又の名須弥山なり。其の山高潤にして四方を傍障す。日月、山をめぐりて互いに昼夜をなす。」とあって、須弥山は崑論山の別名と意識されていた。これはおそらく、仏教が西方から中国に伝わった時に、仏教的な楽土思想が伝統的な中国の神仙思想と習合したためと思われる。日本でよく知られる須弥山図に法隆寺金堂の玉虫厨子のものがある。山頂に一堂と樹木があり、左側にはその中部に三足の烏を描いた太陽を、右にウサギの絵をもつ太陽を描いているが、これは「雲笈七籤(うんきゅうしちせん)」の描写そのものであり、神仙思想による崑論山の投影であると見ることもできる。さて、その山形石だが、表面に山か雲のような造形があり、三層あわせた高さは137センチ。6世紀の宗教地理書「水経注」河水篇によると「崑崙の山は三級からなる。下を樊桐(ばんどう)といひ一名を板桐、次を玄圃(げんぽ)といひ一名を閬風(ろうふう)、上を層城といひ一名を天庭といふ。この天庭が太帝の居(すまい)である」と書き、崑崙は三層からできているといっており、なぜ山形石が三つ重ねだったか、これでわかる。』

『 ところでこの山形石を崑崙山と解することを一つの選択肢とするならば、同時に出土した石人像は、仙像である可能性が高い。それは道教の神・東王父と西王母(せいおうぼ)ではないだろうか。「水経注」のその崑崙の記述の中にも 東王父と西王母は「陰陽相須(あいもち)ふ」とあり、陰陽相和したペアを大事なモチーフにするのは、これもまた道教の大きな特徴だからである。』

『 崑崙山、つまり須弥山は天帝の住まいである。天帝の近くに、いつでも行けるのは、神仙以外にはない。神仙の到来を待ち望み、自らを神仙に仮託しようとした斉明天皇にとって、須弥山像を身近かにおくことは、重要な意味があったと思われる。多武峰の両槻宮を、天上の天帝の都とすれば、須弥山像のある場所は、地上の天帝の都という認識のもとにこうした建造物がつくられたのではなかったのか。』

『 皇極・斉明というのは、もとより漢風のおくりなである。「皇極」とは太極と同じで世界の中心という意味であり、「斉明」とは神の祭りを熱心にする人ということで、いずれも「礼記」や「書経」に見られる言葉である。したがって、それ自身道教と直接関わりがないが、斉明天皇の道観や吉野宮の造営などといった神仙思想への傾倒を意識しての命名であるようだ。』・・・と。

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