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2013年11月26日 (火)

伊勢神宮の道教遺跡(その3山に対する小林達雄の見解)

伊勢神宮の道教遺跡
その3 山に対する小林達雄の見解

 小林達雄は その著書「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)の中で「神奈川県大山頂上からは縄文土器の破片60点、注口土器(ちゅうこうどき)と二個体以上の深鉢が発見されている。発掘調査した赤星直忠は、小出義治 共々、縄文人の関与には否定的で、<縄文土器は山伏が塚をつくるときに埋めた><鎮めもの説>をとっている。縄文人の所業と心をみくびっていまい か。」・・・と言っている。
  さらに彼は言う。「(注目すべきは)西井龍儀の富山県鉢伏山についての意見である。鉢伏山は標高がせいぜい520メートルであるが、<標高500メートル の山頂部での居住がなされたとは考えにくい。付近で見られる縄文時代の遺物とは時代背景、社会環境が異なると言わざるを得ない。・・・鉢伏山そのものが山 麓の人々から崇められたとみたい。山頂部の古代遺跡はそうした人々の畏敬のこもった奉賽品>ではないか、とみるのである。この意見こそ傾聴に値す る。」・・・・と。
 彼は引き続き言う。「ムラを取り囲む自然環境を単なる景観としてではなく、景観の中にいくつかの要素の存在を意識的に確認することによって自分の眼で創る風景とする。その風景の中に特別視した山を必ず取り込もうとしてきたのが縄文人流儀であったのだ。
  そうした山は、単なる風景を構成する点景ではなく、その霊力をもって縄文人の相手をするようになる。縄文人は仰ぎ見ることで、はるかに隔たる空間を飛び越 えて情意を通ずるのだ。その積極性の典型的現れが、ストーンサークルや巨木柱列や石柱列や土盛遺構の位置取りを山の方位と関係づけて配置したことである。 さらに、そうした山頂、山腹と二至二分の日における日の出、日の入りを重ね合わせる特別な装置を各地、各時期に創り上げたのである。
 しかし、ム ラと山頂との距離はいかに頭の中で観念的に越えて一体感に浸ることができたとしても、物理的距離は厳然として存在し、信念、信仰の縄文人魂だけでは到底埋 めることはできない。手を伸ばしても届かない山頂を呼び込むことは不可能だ。この壁を打開するために、ときには縄文人は自ら山頂をめざす決意を新たにし て、ついに実行に移したのだ。その時期がいつであったかは特定できないが、その発意は神奈川県大山出土の注口土器の存在から、少なくとも縄文後期に始まっ ていることがわかる。」・・・・・と。

  旧石器時代から、場所によっては、山は、石器の採掘場所であったり、狩猟採取の場所であったり或は山道であったりしたが、縄文時代になって、すでに、宗教 目的で人々は登山をするという場合も増えてきた・・・、このことは日本人の自然観というか宗教観を考える上で大事なことである。

  小林達雄は、上記の著書の中で言っている。すなわち、『 登山は、平坦地を歩くのとは訳が違う。自らの身体を叱咤激励し、吹き出す汗を流れるにまかせ、疲 れてしびれる足をかばいながら、じりじりと頂上に這い登る気力を奮い立たせねばならぬ。まさにこの肉体的試練あってこそ、体内に気がみなぎり、初めて山の 霊力との接触を確信できたのだ。これは後世の修験者の修行が、肉体への過酷なほどの自虐的な鍛錬とひきかえに、ようやく求める境地に達することが許された ことに通ずるのである。こうした信仰は現代にまで、さまざまなカタチで継承されていることを知るであろう。』・・・・と。まさにそのとりである。


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