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2013年11月12日 (火)

吉野の道教遺跡(その4大和朝廷と道教)

吉野の道教遺跡(その4大和朝廷と道教)

さて、宮滝遺跡をより深く理解するには、古代において道教が大和朝廷にどれほどの影響を与えていたか、もう少し勉強しておかねばなるまい。それには、次のようなほーむぺーじがあるので、ここに紹介しておきたい。

古代信仰と道教:http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/77/7725/772504.htm

飛鳥時代の道教文化:http://www.ab.auone-net.jp/~koinyawa/taoism.html

天皇という称号:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/shotoku/tennougou.htm

道教と天武天皇: http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter1-16.html

天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った。
吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。
翌年、天武天皇元年(672年)6月に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって、まず挙兵した。皇子に仕える舎人には美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を信濃や東海などに遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥を急襲、占領した。
大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。

壬申の乱に勝利した天武天皇は、天智天皇が宮を定めた近江大津宮に足を向けることなく、飛鳥の古い京に帰還した。天武天皇2年(673年)閏6月に来着した耽羅の使者に対して、8月に、即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。天武天皇は壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした。
このことは天皇が赤を重視したことからも間接的に推測されている。壬申の乱で大海人皇子の軍勢は赤い旗を掲げ、赤を衣の上に付けて印とした。晩年には「朱鳥」と改元した。日本では伝統的に白くて珍しい動物を瑞祥としてきたが、天武天皇の時代とそれより二、三代の間は、赤い烏など赤も吉祥として史書に記された。赤を尊んだのは、前漢の高祖(劉邦)にならったもので、秦を倒し、項羽との天下両分の戦いを経て新王朝を開いた劉邦に、自らをなぞらえる気持ちがあったのではないかと推測される。

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