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2013年11月 9日 (土)

吉野の道教遺跡(その1要点)

吉野の道教遺跡(その1要点)

「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)では、「日本国内にも随分多くの道教文化の遺跡がある中で、奈良県吉野郡吉野町の宮滝遺跡こそは古代人も文献にはっきりと記録した道教文化ゆかりの地である。」と述べている。そこで、まず「宮滝遺跡」から勉強を始めたいと思う。

「日本の道教遺跡を歩く」では、その宮滝遺跡についてこう述べている。すなわち、

『 宮滝が古代史の上で脚光をあびるようになったのは、末永雅雄氏(初代奈良県立橿原考古学研究所長、1897~1991)によって、昭和5年(1930)10月に着手された発掘調査からである。(中略)調査は昭和13年まで断続的に続く。(中略)末永氏は「持統天皇の吉野宮と考えても良いのではないか」という。』

『 謎の多い古代史の中でもとりわけ理解に苦しむのは、飛鳥時代末の持統天皇の吉野宮への行幸の多さであろう。(中略)文武天皇にじょういするまでの11年間になんと31回も行幸している。即位前には夫と共に二回、譲位後も一回の計34回訪れたことが「日本書紀」や「続日本紀」に記載されている。何故、持統天皇はこれほどまで吉野を訪れたのか。「日本書紀」や「続日本紀」を読む限りなにも判らない。』

『 吉野に行幸したのは、実は天武・持統だけではない。「日本書紀」によると、最古の例は応神天皇。(中略)次いで雄略天皇が二回、(中略)持統天皇以後も文武天皇が二回、元正天皇が二回、聖武天皇が二回と、奈良朝までしばしば吉野への天皇行幸があった。何故、古代の天皇はこれほど吉野にひかれたのか。その謎を解く鍵こそは道教思想にある。吉野宮つまりこの宮滝の地は古代人にとって道教の解く不老不死の世界である「神仙境」、あるいはそこに最も近い所と考えられたからだ。11年間の在位中に31回も訪れた持統天皇は、そこで道教思想に基づく「祭天の儀式」を行なうために来たのではなかろうか。それにはまず、吉野は神仙境という証拠を示そう。』・・・と。

「日本の道教遺跡を歩く」ではそう述べた後、「懐風藻」という、わが国最古の漢詩集をもとに、宮滝の地が古代人に道教の解く不老不死の世界である「神仙境」と認識されていたことを、「日本の道教遺跡を歩く」の中で縷々述べられている。その点については、ここで省略するので、是非、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)を読んでもらいたい。ここでは先を急ぎたい。「日本の道教遺跡を歩く」では次のように述べている。すなわち、
『 実は、「万葉集」は三船の山や象山(さきやま)など吉野川近くの山がうたわれているが、最も重要視すべきものは、宮滝の南の喜佐谷の彼方に、緩やかな二等辺三角形のピークを覗かせる「青根ヶ峯(859m)」である。(中略)青根ヶ峯は金峯山(きんぷせん)の一角をなしている。金峯山は「金の御嶽」とよばれ奈良・平安以降に信仰を集めた聖山。大峯修験道という山岳信仰の行場で知られるが、それは奈良・平安になってにわかに注目されたというよりは、古い信仰をベースにして生まれたというのが定説である。』・・・と。

吉野について「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)が述べている要点は以上の通りである。以下において、「宮滝」や「青根ヶ峯」を中心に関連する事柄を紹介していきたい。

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