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2013年11月13日 (水)

吉野の道教遺跡(その5天武天皇と道教)

吉野の道教遺跡(その5天武天皇と道教)

このようにして天武天皇の新時代が始まるのであるが、天武天皇は、道教に対する信仰心と深い知識をお持ちであったようで、上記「道教と天武天皇」というホームページから、その要点を抜き書きしておきたい。「道教と天武天皇」というホームページでは、次のように言っている。すなわち、

『 天武天皇は、吉野宮(宮滝遺跡)を訪れた以外は、飛鳥を安住の地として一度も外部に出ていません。天武天皇が道教思想に基づいて大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)の中心に計画して持統天皇の代になって完成した藤原京は、手狭になった飛鳥京を移転するためでした。』

『 持統期になって、都が飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)から北飛鳥の藤原京に移されました。その新都は天武天皇が道教の方位学や地勢学、現代風に言えば風水に基づいて場所を定めて、前漢・隋・唐の都だった長安を模して造営された、壮大な計画都市でした。』

『 天武天皇が崩御したのは十五年(686年)の九月で、その二ヶ月前に天皇の病気回復を祈って、年号が「朱鳥」と改元されました。朱鳥は道教の四霊獣神(四神)の一で、よみがえりの地と考えられた南方を守る朱雀(すざく)のことであり、天武天皇が信奉した道教の思想に拠ったものです。』

『 宮は藤原京のほぼ中心に位置して、宮から真南に伸びた大路の出口に朱雀門が設けられ、その延長線上に、天武・持統合葬陵(野 口王墓)が設営されています。ちなみに、青木御陵とも言われるその陵は、他の治定陵と違って、明治13年(1880年)に発見された『阿不幾乃山陵記』 (あおきのさんりょうき)という十三世紀の書物によって、現在埋葬者が確定している唯一の古代陵で、八角墳です。(中略)「八」は道教で宇宙や全世界を現した数字です。』・・・と。


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