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2013年11月15日 (金)

明日香の道教遺跡(その1道観が日本にもあった!)

明日香の道教遺跡
その1、道観が日本にもあった!
「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)では、「古代の日本には、道教の強い影響があったとしても、道教寺院は建てられた形跡がないというのが今までの通説であったが、実は、今の奈良県高市郡明日香村に宮都のあった7世紀頃、道教寺院が建てられていた。」と述べている。そこで、まず「明日香の遺跡」から勉強を始めたいと思う。

「日本の道教遺跡を歩く」では、飛鳥の遺跡について次のように述べている。すなわち、

『 「道教は日本列島に上陸しなかった。その証拠に道教関係の建物が建てられた形跡がない。」 これが今までの通説であった。だが実は、今の奈良県高市郡明日香村に宮都のあった7世紀頃、道教寺院が建てられていたのである。それも天皇によって。こういえば思い当たる人があるに違いない。次のような記載が「日本書紀」の斉明2年(656)の条にあるからである。「田身(たむ)の嶺(みね)に周れる垣を冠らしめ、また嶺(たけ)の上の両(ふた)つの槻(つき)の樹の辺(ほとり)に観(たかのど)を起て、号(なづ)けて両槻宮(ふたつきのみや)とす。亦(また)天(あま)つ宮と曰(い)う。(注: 田身(たむ)の嶺(みね)は、「日本書紀」の斉明2年(656)の条には、山の名なりとの注釈があり、その後の条では、多武峰(とうのみね)とも書かれているようだ。)』
『 女帝・斉明天皇が「 田身(たむ)の嶺(みね)」に建てたこの両槻宮は、道教寺院ではないかといち早く指摘したのは、東京大学教授・黒坂勝実であった(大正12年、史林第8巻1号)。(中略)黒坂は、両槻宮を道教の道観としている。(中略)昭和40年代になって、やっと「観とは道観のことか」とかく「日本書紀」の評釈書も出始めた。』
『 多武峰(とうのみね)は今でこそ談山神社の神域となっているが、もともとは寺域であった。藤原鎌足の子定慧(じょうえ)が、摂津国鴨下郡阿威(あい)山(現在の高槻市阿武山)の鎌足の墓を多武峰に移葬して墓の上に十三重塔を起てのが始まりと伝えられる。飛鳥時代末からは藤原一族の庇護を受けて、各所に堂塔が建立された。平安時代中期には、「談山権現」の神号を受け、神仏習合が進んだが、明治維新の廃仏毀釈で、仏教色が一掃されて談山神社となったのである。』
『 両槻宮跡についてはほかにも候補地がある。その一つは地元の桜井史談会代表幹事だった松本俊吉氏らが主張しているもので、(中略)尾根続きで南に1.5キロほど離れた場所にある冬野である。今は「ふゆの」と呼ばれているが、もともと「とうの」と言われていたという説である。(中略)その冬野には、今、尾根筋に数軒の民家があるが、明治年間までは20数軒近くあったという。飛鳥や多武峰に向かう近道が古くからあり、峠の休憩所として栄えたらしい。(中略)標高677mと、周囲の山並みの中ではずば抜けて高い冬野の最高点付近は意外に広く関西電力のマイクロウェーブのアンテナが立っている。そのすぐわきに大きなイチョウの木があり「琴比羅大神」と刻んだ石柱が一つあった。そのいわれについてはよくわからない。松本氏は「眺望も良く、平地があることと、古代の土器片が散布していることから、両槻宮の候補地としてふさわしい」という。(中略)見下ろすと、杉木立の間から伝飛鳥板蓋宮のある明日香村の中心部が望める。』
『 斉明天皇がやはり同じ年に作った吉野宮から見上げられる聖なる山「青根ヶ峯」が見える。その後方には大峰修験道の根本道場のある山上ヶ岳とそれに連なる大峰山系も望める。斉明天皇が冬野に両槻宮を建てても決して不思議ではないと思われた。』
『 冬野に両槻宮があったという確証はないとしても、このあたりに道観がつくられた理由の一つのを、一帯が仙境と意識されていたことに求めても良いかも知れない。(中略。注:「日本の道教遺跡を歩く」には、古代においてこの冬野が仙境と意識されていたことが縷々述べられているが、ここでは省略する。)』
『 日本書紀では、両槻宮を「亦曰天宮」とある。(中略)その「天宮」とは実は、中国六朝時代に成立した道教教典「老子中経」などに登場する用語である。神仙になったものしか行けない、天上世界の宮殿のことである。飛鳥人たちは、天皇や皇子は神界と人間の間を行き来できる神、つまり神仙と考えていたようだ。』
『 斉明天皇が「天宮」ともいわれた両槻宮をつくったのはなぜか。それはおそらく、漢の武帝の故事にならい、不老長寿をもたらしてくれる神仙を迎えようとしたのではなかろうか。自らつくった後飛鳥岡本宮から見上げる多武峰は特別な意味をもつ場所であることは想像に難くない。そこに「両槻」の名を付けた宮殿をつくったのは、たまたま二本の槻(つき)の木があったという簡単なことではない気がする。(中略)二本の樹木を宮の名とするには特別の意味があったと思われる。例えば漢鏡には、瑞祥(ずいしょう)を表現するものとして「木連理(もくれんり)」(連理枝)の図柄がよく見られる。また、道教の神、東王父(とうおうふ)がいる扶桑(ふそう)の木は「両根を同じくして偶生し、相ひ依倚す」(海内十洲記)とあるからだ。』・・・と。

「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)の説明はこの後も続くのであるが、とりあえずここまでの所で私の補足説明を、次回にするとしよう。

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