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2013年11月11日 (月)

吉野の道教遺跡(その3宮滝)

吉野の道教遺跡(その3宮滝)

さあそれでは、いよいよ、宮滝の説明に入るとしよう!

宮滝には滝はない。宮滝の滝は「たぎつ」(水が激しく流れる)の意味である。先の地図にある赤線が「万葉の道」と呼ばれている散策路であるが、それが吉野川を渡る所が柴橋である。その柴橋の中ほどから下流を向くと、「たぎ(滝)つ瀬」の様子を想像することができる。昔は、もっと水量が多かった。大滝ダムの影響で現在では環境に配慮しつつも、多少、水量が少なくなっている。ちなみに、宮滝の名前の由来は「たぎつ川にある宮」の「滝の宮処」だと言われている。
白州正子は、「かくれ里」(1991年4月、講談社)の「吉野の川上」で、「南国栖のあたりで、吉野川は右へ屈折し、『滝つ瀬』となって流れるが、その急流にえぐられた奇岩が、異様な姿で川床をうねって行く。竜神の信仰は、このような景色から想像されたに違いない」・・・と書いている。

宮滝遺跡の発掘の歴史は古い。
http://nevertolate860.blog129.fc2.com/blog-entry-626.html によれば、

「 高見村中黒の人である木村一郎氏は明治初期から宮滝の遺物を集めていた。木村氏はやがて東京にでた。当時著名な喜田貞吉博士に宮滝の吉野離宮説を話していたようである。やがて山本源次郎氏、中岡清一氏、岸熊吉氏にひきつがれ、昭和5年末永雅雄氏の発掘調査が始まった。末永雅雄氏は当時京都大学考古学教室に席をおき、考古学史上燦然と輝く、石舞台古墳(昭和8年)や唐子鍵遺跡(昭和12年)の発掘をてがけておられた。この発掘は8年間に及び「宮滝の遺跡」という大部の報告書を発行した。その後時間をおき、昭和50年当地に幼稚園建設にともなう、事前発掘がおこなわれ、翌年から「宮滝遺跡範囲確認調査」が開始され国家補助金が交付された。その後昭和62年第38次の調査まで積み重ね、いまや遺跡の全体像がおぼろながら見えてきたのである。」・・・とある。

末永雅雄は、冒頭に述べたように、 初代奈良県立橿原考古学研究所長である。宮の遺跡が「吉野宮」の遺跡だとつきとめたのは末永雅雄の功績であると言って良い。

奈良県のホームページには、吉野歴史資料館の館長の話が載っていて、それによると、吉野宮は斉明朝のときに造営されている。

http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c21/index.html



「吉野歴史資料館」は、宮滝遺跡のすぐ近くにある。これは是非とも見なければならない。宮滝遺跡の詳しい説明、つまり「吉野宮」の詳しい説明がなされている。
「吉野歴史資料館」は、縄文、弥生、飛鳥、奈良時代にわたる複合遺跡・宮滝遺跡。各時代の特徴と様子を、さまざまな発掘成果とともに展示・解説する。キャンプ地のように良い気候時のみ移動してきて暮らしていたという縄文人。稲作に頼らない集落作りをした弥生人。常識とは少し違う“宮滝の人々”の暮らしぶりはとても新鮮だ。縄文後期の標準土器である宮滝式土器、弥生人が葬られた壷棺など、見どころは多い。飛鳥時代の吉野宮も、奈良時代に造営された吉野離宮の姿も鮮明になりつつある。コーナーでは復元模型などを展開。幻の宮を現代に甦らせている。


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