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2013年11月 5日 (火)

習近平に期待するもの(その3習 近平は農民の支持を得られるか)

習 近平に期待するもの

3、習 近平は農民の支持を得られるか

「習 近平の密約」(加藤隆則と竹内誠一郎の共著、2013年4月、文芸春秋)では、習 近平と農民との繋がりについて、次のように述べられている。
『 習15才の時、一家離散の末、党幹部の住む北京の中南海を離れ、陜西省延安市梁家河村に送り込まれた。文革期、都市の学生たちに肉体労働を経験させた下放政策である。このときの経験が、総書記への階段を上る、迂遠だが、確実な第一歩となった。乾燥した黄土大地の山間にへばりつくように置かれた梁家河村は、省都西安から北へ約400キロ、建国前、共産党が本拠地とした延安からさらに北東へ約70キロにある。トウモロコシやコーリャンが主食の寒村だ。同行した他の青年14人は同じ宿舎に住んだが、習は、山腹に幅3m、高さ3mの横穴を掘った「ヤオトン(窯洞)」と呼ばれる地元特有の横穴式住居で農民と同居した。新華社通信は当時の様子をこう紹介している。『習 近平はほとんど休む間もなく、土地を耕し、炭を運び、堤防を作り、糞を担ぎ、どんな作業もし、どんな苦労も経験した。農民たちは、50キロから100キロの麦を担ぎ、5キロの山道を肩も変えずに歩く習 近平を見て、苦労に耐える若者だと思った。農作業もでき、知識もあり、知恵も歩かれは、次第に農民たちの信頼を得た。(中略)村民の強い推薦で文革集結間近の1974年、ようやく入党が認められ、20才で村のリーダーである党支部書記に推挙された。習の話を聞こうと、彼のヤオトンは村の集会場と化した。今でも、習が使った机や椅子、夜間の読書に灯したランプ、深緑色の布製バッグがそのまま置かれ、往時を偲ぶことができる。』・・・と。建国前、共産党が本拠地とした延安からさらに北東へ約70キロにある。

「習 近平の密約」(加藤隆則と竹内誠一郎の共著、2013年4月、文芸春秋)では、習 近平と農民との繋がりについて、さらに、次のようにも述べられている。

『 習を良く知る梁王明・元党支部書記は「我々が、農民の厳しい暮らしや食物がどう生産されているのかを教えた。延安は彼の根っこだ。」と胸を張る。同じヤオトンで暮らした呂候生は、「1994年、右足が骨髄炎にかかった際は福建の医者を紹介してくれ、交通費から治療費まで払ってくれた。この恩は一生忘れられない。」と話す。習は福州市党委書記をしていた92年秋、同村を再訪し、「子供が遅刻しないように」と村内全50世帯に目覚まし時計を贈った。学問の大切さを伝えるためだった。村の戸数が当時から10世帯増えていることを知った習は後日、足りなかった10個を送った。中国語で時計を意味する「鐘」は、「終」と音が同じで贈答品にふさわしくないとされるが、住民は「しきたりにこだわらない気安さ」を感じた。』

『 習は寄稿「私は黄土の子だ」の中で、「反革命の子弟」として過ごした当時の経験を振り返っている。寝床のノミと雑穀の食事、苛酷な農作業と初めての経験ばかりだったが、「農民の勤勉で、辛抱強い精神を学び、素朴で質素な人品に影響を受けた」とし、「現実とは何か、事実求是とは何か、民衆とは何かを知り、自分への自信を培ったことが最大の収穫だ」と振り返った。また、最初は孤独だと思ったが、父親の世代を育てた黄土高原は、必ずや寛大な胸襟を開いて、この世間知らずの子供を受け入れてくれると思った」と書いた。』

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