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2013年10月 7日 (月)

南京攻略の背景(その1中国側の挑発)

南京攻略の背景(その1中国側の挑発)

南京攻略は、第2次上海事変を端緒として勃発した。
盧溝橋事件に端を発して、華北において戦火が広がった。第二次上海事変(だいにじシャンハイじへん)は、1937年(昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐とそれに続く日本軍との交戦である。1932年(昭和7年)1月28日に起きた第一次上海事変に対してこう呼ぶ。上海戦(シャンハイせん)とも呼ぶ。盧溝橋事件により始まった華北(北支)での戦闘は、いったんは停戦協定が結ばれたものの、7月25日の郎坊事件で停戦が破られると、26日の広安門事件で日本人に犠牲者が発生し、29日の通州事件では民間人を含む230名が虐殺されたことにより、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。この事件以後華中(中支)において交戦が拡大することになった。

廊坊事件(ろうぼうじけん)は、1937年(昭和12年)7月25日から26日に中華民国の北平(北京市)近郊にある廊坊駅(廊坊)で発生した日中間の武力衝突。7月7日夜の盧溝橋事件勃発後、現地停戦協定が結ばれたものの国民革命軍第二十九軍の部隊は7月20日には盧溝橋城から日本軍に射撃を加え、同時に八宝山方面にあった部隊の一部も日本軍を攻撃したため日本軍も応戦するという事件を起こしていた。
広安門事件(こうあんもんじけん)は、日中戦争初期(北支事変)の1937年(昭和12年)7月26日、中華民国冀察政務委員会の支配地域であった北平(北京市)で起きた国民革命軍第二十九軍による日本軍への襲撃事件。北平居留民保護の為に日本軍広部大隊[2]は26台のトラックで北平城内の日本兵営に向かった。事前に松井特務機関長が部隊の北平外城広安門通過について冀察政務委員会当局と交渉して秦徳純市長の承諾を得た上で連絡の為に冀察政府軍事顧問桜井少佐が午後6時頃広安門に赴くと門を警備していた中国軍が城門を閉鎖していたため開門について交渉した結果午後7時半頃開門され部隊が門を通過を始めたが部隊の3分の2が通過した時に突如門が閉ざされ広部部隊を城門の内と外に分断した状態で不意に手榴弾と機関銃の猛射による攻撃を加えてきたため広部部隊も門の内外から応戦した。 中国側は兵力を増強して大隊を包囲し、一方豊台の河辺旅団長により午後9時半救援隊が派遣されたところで折衝により中国軍は離れた場所に集結し、広部部隊 の内、城内に入ったものは城内公使館区域に向かい、城外に残されたものは豊台に向かうという案がまとめられ午後10時過ぎに停戦し、広部部隊は27日午前 2時頃公使館区域の兵営に入った。この戦闘における日本軍の死傷者の合計は19名で、その内訳は戦死が上等兵2、負傷が少佐1、大尉1、軍曹1、上等兵2、一等兵1、二等兵7、軍属2、新聞記者1であり、桜井顧問に同行した通訳1名も戦死している。当時、既に中国軍は河北省南部の石家荘・保定や山西省の大同に多数集結し、また豊台においては完全に日本軍を包囲しており、その一方で日本軍も新たに動員された関東軍・朝鮮軍の部隊が北平・天津地区に到着しつつあり、両軍の間で緊迫の度が高まる中で起きた事件であった。この事件は、直前に起きた廊坊事件とともに中国側の規範意識の欠如と残酷な面を見せつけ、中国側に対して全く反省を期待できない不誠意の表れであり和平解決の望みが絶たれたと判断した日本軍支那駐屯軍は7月27日夜半になって前日の通告[9]を取消し、改めて冀察政務委員会委員長であり、二十九軍軍長でもあった宋哲元に 対し「協定履行の不誠意と屡次(るじ)の挑戦的行為とは、最早我軍の隠忍し能(あた)はざる所であり、就中(なかんずく)広安門に於ける欺瞞(ぎまん)行 為は我軍を侮辱する甚(はなは)だしきものにして、断じて赦すべからざるものであるから、軍は茲(ここ)に独自の行動を執(と)る」ことを通告し、さらに 北平城内の戦禍を避けるために中国側が全ての軍隊を城内から撤退させることを勧告した。日本軍支那駐屯軍は28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を加える為、必要な部署を用意し、河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益と その居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告し、これと同じ内容が内閣書記官長談として発表された。駐屯軍は28日から北平周辺の中国軍に対し攻撃を開始し、天津方面では28日夜半から中国軍の攻撃が開始され、各方面で日本軍が勝利し2日間で中国軍の掃蕩が完了した。7月29日には、多くの女性子どもを始めとする在留日本人数百人が「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)によって虐殺される通州事件が起き、日本世論は激昂することとなった。
通州事件(つうしゅうじけん)とは、多分、中国第二十九軍の裏工作があったのだろう、1937年(昭和12年)7月29日に、中国の通州において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した事件。日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害され、殺害方法も猟奇的なものがおおかった。



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