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2013年10月 5日 (土)

盧溝橋事件(その1概要)

盧溝橋事件(その1概要)

盧溝橋(ろこうきょう)は、中華人民共和国北京市の南西約15kmの、豊台区を流れる盧溝河(現在は永定河)に架かる石造りのアーチ橋である。かつてこの地を訪れたマルコ・ポーロは、その著書『東方見聞録』の中で、この橋が「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と記した。橋の欄干には、それぞれが異なる表情や姿をした計501基の獅子の彫像が置かれている。

人々の間で「盧溝橋の獅子は数え切れない」と言われている。盧溝橋は金代に造られた800年の歴史がある北京最古の橋。長さ266.5m、幅9.3m、全て白石で作られている。全部で11本の橋桁があり、橋のわきには、清の乾隆帝による石碑があり、「盧溝暁月」と記されている。「盧溝暁月」は金代からの燕京八景の1つ。( http://www.longtou.net/view16.php より)

盧溝橋事件は、1937年(昭和12年)7月7日に、その盧溝橋で起きた、日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である。中国では一般的に「七七事変」と呼ばれる。この事件は支那事変(日中戦争)の直接の導火線となった。

事件の発端となった盧溝に橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づく。北京議定書とは、1901年9月7日に北京で調印された義和団の乱における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。この議定書は、列国協議のもとで清朝に拒否を一切認めない形で進められたので、首都北京を占領された清朝はこれを呑まざるを得なかった。そのうちでも公使館周辺区域の警察権を列国に引き渡したり、海岸から北京までの諸拠点に列国の駐兵権を認めるといったものは、清朝領域内でその国権が否定され、列国が統治する地域が生ずるものに他ならなかった。

満州事変のあとの停戦協定、すなわち1933年の塘沽協定により戦闘行為は停止されたが、国民党政府(蒋介石の南京政府)は日本の満州占領も認めてはおらず、全国的に反日気運が高まる中、南京政府は、抗日の覚悟を決め、1936年春頃から各重要地点に対日
抗戦の軍事施設を用意し始めた。そして、多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させていったのである。国民革命軍には30の軍があったが、この第二十九軍というのが問題であったのである。軍の下に軍団、軍団の下に師団、その下に旅団、その下に連隊、その下に大隊、中隊、小隊、分隊と小さくなっていくが、軍とは相当でかいのである。その二十九軍の兵士が特殊な訓練を受け、日本軍に対する挑発行為を次々と行ったのである。つまり、国民革命軍第二十九軍は、抗日事件に関して張北事件、豊台事件をはじめとし、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の嫌がらせというか不法事件を起こしていた。また、盧溝橋事件(1937年7月)以前に第二十九軍は、コミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い、国民政府からの中堅将校以外にも中国共産党員を多数受け入れたのである。副参謀長張克侠を はじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱 則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で第二十九軍兵士の思想教育を行っていた。そして遂に、第二十九軍は盧溝橋事件より2カ月あまり前の1937年4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、長辛店方面において兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日には既に対日抗戦の態勢に入っていたのである。

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