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2013年10月 1日 (火)

満州事変(その5停戦協定)

満州事変(その5停戦協定)

塘沽協定(たんくーきょうてい)は、1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定である。

これにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。塘沽停戦協定とも呼ばれる。関東軍が万里の長城を越え北京のすぐ近くまで迫ると、何応欽はやっと停戦の提案を行なった。昭和8(1933)年、塘沽(タンクー)において岡村寧次少将と熊斌(ゆうひん)中将との間に協定が結ばれた。これが塘沽停戦協定である。この協定によって満州国と接する河北省内に非戦地区が設けられた(非戦地域は、のちに梅津・何応欽協定によって河北全省に広がる)。また、この協定で満州国と支那の境界線が明快になった。ただし、石原莞爾は以下のように言っている。「塘沽協定で日支紛争を局地解決したことは一応の成功であったが、さらに外交交渉を進めて蒋介石に排日停止、共同防共、満州国承認、少なくとも黙認までを約させるべきであった。満州事変の終末指導をいい加減にしたことが、将来支那事変にまで発展させた一つの訴因であった」・・・と。塘沽協定(1933年5月)以後、目立った戦闘はなく、事実上、満州事変は終結した。日本と支那の関係は改善される。4年後の1937年(昭和12年)7月に盧溝橋事件が起きるまで、日本と支那の間には短いながらも戦争のない状態が続く。問題は盧溝橋事件であり、何故盧溝橋事件が起こったのかを考えねばならない。 たしかに塘沽(タンクー)協定は満州国における停戦協定ではあったが、中華民国との和平協定ではなかった。中華民国は、そもそも満州国の建国に反対であって、抗日の気運は収まっていなかったからである。後述するように、満州国の建国というものは、清朝の皇帝退位のための『優待条例』の 第3条「皇帝は暫時紫禁城に居住し、後に頤和園に移る。」と第4条「清室の宗廟は民国政府により保護を受ける。」というものをまったく無視したものであることは明らかであろう。このことによって蒋介石はじめ中華民国のリーダーたちが抗日の決意を固めていたのである。

したがって、日本としては、石原莞爾が言うように、 塘沽協定からさらに外交交渉を進めて、蒋介石に排日停止、共同防共、満州国承認、少なくとも黙認までを約させるべきであったのかもしれない。いやいや、そうではない。私の考えとしては、もっともっと遡ることになるが、孫文が言うように、日本による対華二十一ヶ条要求は「維新の志士の抱負を忘れ」、中国への侵略政策を進展させることであったのであるから、私たち日本人は明治維新の精神を失うことなく持ち続けるべきだったのである。 対華21ヶ条要求とは、第一次世界大戦中、日本が中華民国政府とおこなった外交交渉において提示した21か条の要求と希望のことである。私たち日本人は日露戦争の輝かしき勝利に酔いしれていたのではなかろうか。誠に残念なことである。

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