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2013年10月 2日 (水)

満州事変(その6リットン調査団)

満州事変(その6リットン調査団)

さて、関東軍が満州事変をひきおこしたその狙いは、私は、満州に傀儡政権を通じて、実
質支配を行うところにあったと見ている。満州国の建国1932年(昭和7年)2月初め頃に
は、関東軍は満洲全土をほぼ占領し、そしてその直後、3月1日、満洲国の建国が宣言された。この二つの出来事は連動している。満州国の国家元首にあたる「執政」には、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀が就いた。犬養毅内閣は「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定したが、愛新覚羅溥儀政権を国家として認めることについては、慎重であったのである。しかし、日本政府は、関東軍の独断行動に引きずられる結果となった。同年5月に五・一五事件が起き、政府の満洲国承認に慎重であった犬養は、反乱部隊の一人に暗殺された。
1932年(昭和7年)3月、中華民国政府の提訴により、国際連盟からリットンを 団長とする調査団が派遣された。この調査団は、半年にわたり満洲を調査し、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。1932年9月15日に斎藤内閣のもとで日本国政府として満洲国の独立を承認し、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。しかしながら、翌1933年 (昭和8年)2月24日、このリットン報告をもとにした勧告案が国際連盟特別総会において採択された。満州国の存続を認めないという内容の勧告案であった。 しかしその後、ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペイン国などのその後の第二次世界大戦における枢軸寄り中立国も満洲国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで独立国として安定した状態に置かれた。アメリカやイギリス、フランスなど国交を結んでいなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。
満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」に
よる民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮
人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。しかし「満州国内面指導に関しては外
交をも包合し、軍の全責任を持ってこれに任じある。軍は中央の方針に基きその外交を処
理する」と板垣征四郎関東軍参謀長が述べたように関東軍の指導体制が確立されており、
「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。このため、満州
国は日本の傀儡政権であったという認識が通説となっている。黄文雄など、傀儡ではな
かったという主張を行う論者も存在するけれど、私は通説どおり、満州国は日本の傀儡政
権であったと考えている。
満州国の存続を認めないという国際連盟特別総会の決議が契機となって、1933年(昭和8年)3月、日本は正式に国際連盟に脱退を表明し、同時に脱退に関する詔書が発布された(なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日)。
熱河省主席湯玉麟は、満州国建国宣言に署名したものの、張学良と内通し、約3万にのぼ
る反満抗日の軍隊を育成していた。 一方、満洲国と中華民国との国境山海関では、昭和7
年秋以来小競り合いが散発していたが、1933年1月1日、関東軍は一部をもって山海関を
占領し、北支那への出口を押さえた。
1933年春、関東軍は熱河省を 掃討することを決し、満洲国軍主力及び第六師団、第八師
団、歩兵第十四旅団、騎兵第四旅団による熱河作戦を計画した。2月下旬、第六師団及び
騎兵第四旅団 は行動を開始し、3月2日に凌源を、3日に平泉を、4日に承徳を陥落させ、
3月中旬までに古北口、喜峰口付近の長城線を占領した。
1933年3月中旬、中華民国は、何応欽の 指揮する中央軍約20万を直隷地区に進め、日本
軍の南下に対抗させた。中華民国側は、3月下旬にはその兵力の一部を長城線の北方に進
めた。これに対して、 関東軍は、4月11日に第六師団、歩兵第十四旅団、歩兵第三十三旅団をもって「灤東作戦」を開始し、長城を越えて中国軍を灤東以南に駆逐し、19日、長城線に帰った。ところが、中国軍は撤収する日本軍を追尾して灤東地区に進出したので、5月8日、第六師団・第八師団は再び行動を起こし、5月12日には、灤 河を渡って北京に迫った。
1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽において日本軍と中国軍との間で停戦協定が結ばれた。これが上述した塘沽協定(たんくーきょうてい)である。これにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。 しかし、これは中国側が満州国を正式承認したものではなく、満州の帰属は両国間の懸案事項として残されたままであった。

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