« 毛沢東の長征(その2毛沢東の象徴性) | トップページ | 毛沢東の長征(その4総まとめ) »

2013年10月29日 (火)

毛沢東の長征(その3毛沢東が天命を受けた経緯)

毛沢東の長征

3、毛沢東が天命を受けた経緯

では、毛沢東が天命を受けて今皇帝となり、遂に現在のような国民統合の象徴になった、その初期の経緯について説明をしていきたい。毛沢東は中国共産党の歴史にその名を刻むのは1921年の中国共産党第一次全国代表大会からである。毛沢東は湖南省長沙の代表としてその大会に出席している。その大会では中国共産党綱領が決議されたのだが、その後の活動ははかばかしくなかったらしい。そこで、毛沢東は、井崗山(せいこうざん)に立て籠ってまず活動の拠点を作る。その頃の毛沢東集団は山賊みたいなものであったらしい。井崗山は、江西省と湖南省の省境に位置し、羅霄(らしょう)山脈に属する急峻な山である。

何故毛沢東は井崗山みたいな山の中に根拠地を作ったのか? この点について橋爪大三郎は次のように説明している(私の教科書「おどろきの中国」)。すなわち、
『 そこに農民反乱を組織している朱徳とか賀龍とかなどの将軍がいたからしい。』
『農民反乱はうまく行っているのに、都市反乱は何故うまく行かないんだろう? それは中国社会の現状と関係がある。中国社会はまだ何と言っても農村社会で、そこに地主と、一握りの資本家がいる。工場労働者もほとんどいないところで、「労農結合」と言っても無理ですから、革命は、農民主体にしなければいけない。というふうにだんだんなっていったと思うんですね。』・・・と。

1927年に井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。
そして、毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。中華ソビエト共和国は、1931年11月7日に江西省瑞金を首都として中国共産党が樹立した政権。主席は毛沢東。長征に出る1934年10月に事実上消滅した。

国民党軍による包囲に対して、毛沢東や朱徳など前線司令部は「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」というゲリラ作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた。毛沢東の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛沢東は軍の指揮権を失った。また、毛沢東が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに1933年1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛沢東に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛沢東は1934年1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。

「長征」は、蒋介石率いる国民党軍に敗れた中国共産党(紅軍とも呼ぶ。以下に同じ。)が、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、1934年から1936年にかけて国民党軍と交戦しながら、1万2500kmを徒歩で続けた移動をいう。「西遷」(せいせん)、「大西遷」ともいう。中国国民党からは「大流竄」と呼ばれた。

上の図は字がはっきりしないので地名が読み取れないが、長征は、江西省からスタートして、貴州省、雲南省、四川省、陜西省、山西省と、中国の奥をぐるっと回って、内モンゴルのすぐ近くの黄土丘陵地帯を目指したのである。それは、どのような考えであったのであろうか? ひとつは、多分ソ連からの援助が受けやすい。もうひとつは、日本軍や国民党軍の攻撃を受けにくい。三番目は、北京に入場しやすい。私の教科書「おどろきの中国」ではそう述べている。天帝は、天命によって権威を与えるけれど、権力を与える訳で

はない。農民の心をつかみ、天命を受ける資格を得たけれど、毛沢東は自分自身で戦略を考え、自力で権力を握らなければならない。毛沢東は見事それをやったのだと思う。

そして、「長征」の最中の1935年1月15日に、毛沢東の呼びかけで、貴州省遵義で中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)を開催する。その遵義会議では、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚した。 出発してから西に400キロの湘江では多大な犠牲を出し、ソ連モデルを教条化した軍事路線が批判されたのである。そして、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足し、毛沢東が実質的に党・軍の指導的地位を確立するきっかけとなったのである。毛沢東の戦略勝ちという他ない。つまり、 湖南省北西へ向かう予定のコースを毛沢東の主張に従い、変更して貴州に入った紅軍は、1935年1月初、遵義の町に入城し占領する。その時に接収されたのが、貴州省の商人・銀行化・事業家であった柏輝章の邸宅で、遵義会議はその邸宅で開催された。柏輝章は、貴州軍閥の親分・王家烈より遵義地方の軍閥として第25軍第2師団の師団長に任ぜられていた。毛沢東の考えによるルート変更によって、中国共産党軍が貴州を通過しようとすると、王家烈はこれを正面から迎撃しようとしており、その前線に柏輝章が立たされていたのである。

毛沢東は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年12月7日、朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握。5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)で、コミンテルンの仲介により宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築。翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、共産党軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」に改組された。中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の中国共産党中央軍事委員会)に改組され、毛沢東は改めてその主席に就任した。

以上述べてきたように、遵義における中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)は、毛沢東が実質的に党・軍の指導的地位を確立するきっかけとなった中国の歴史上記念すべき重要な会議であり、遵義市には紅軍ゆかりの名所も多い。

« 毛沢東の長征(その2毛沢東の象徴性) | トップページ | 毛沢東の長征(その4総まとめ) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

ミズノ サッカースパイク 激安

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/53756357

この記事へのトラックバック一覧です: 毛沢東の長征(その3毛沢東が天命を受けた経緯):

« 毛沢東の長征(その2毛沢東の象徴性) | トップページ | 毛沢東の長征(その4総まとめ) »