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2013年10月13日 (日)

支那事変について

支那事変について

先に述べたように、 盧溝橋事件は支那事変(日中戦争)の直接の導火線となったのであって、そういう意味で、盧溝橋事件と支那事変とは一体不可分の出来事である。

支那事変は、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大した。8月の第二次上海事変ならびにそれに続く南京攻略以降は、中支(中支那、現中国の華中地方)に飛び火、次第に中国大陸全土へと飛散し、日本と中華民国の戦争の様相を呈していった。

盧溝橋事件については、
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rokoukyou.pdf

そして、第二次上海事変ならびにそれに続く南京攻略については、
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nankinko.pdf

にそれぞれ詳しく書いたので、是非、これらをじっくり読んでいただきたい。


1941年(昭和16年)12月までは、双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。

事変の長期化と共にアメリカやイギリスは援蒋ルートを通じて重慶国民政府(蒋介石政権)を公然と支援。日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘を支援し南京国民政府(汪兆銘政権)を承認した。

汪兆銘は、汪兆銘:光緒30年(明治37年、1904年)9月、清朝の官費生として日本の和仏法律学校法政大学(今の法政大学の前身)に留学。留学中に孫文の革命思想に触れ、光緒31年(1905年)、革命党に入党した。やがて孫文の来日を機に同年8月中国同盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。やがて清朝の意を受けた日本政府の取締りにより『民報』は発行停止に追い込まれ、孫文は根拠地をフランス領インドシナのハノイ、ついでイギリス領マレーのシンガポールに移した。孫文の信頼を得ていた汪も、孫文と行動を共にする。孫文がフランスへ去った後、汪はタイ王国以外は欧米の植民地支配下にあった当時の東南アジアにおける中国同盟会の勢力拡充に力を注ぐことになる。民国元年(1912年)3月、袁世凱が臨時大総統に就任したが、「皇帝」への野心を持つ袁世凱と孫文らの対立が表面化し(第二革命)、民国2年(1913年)、孫文は日本へ、汪はフランスへ亡命することとなった。袁世凱政府が崩壊して新政府が誕生すると、民国6年(1917年)、汪はフランスから帰国。孫文の下で、汪は広東軍政府の最高顧問を務めることとなる。民国14年(1925年)の孫文死去に際しては、孫文の遺言を起草。病床にて孫文の同意を得たと伝えられる。孫文の死後、汪は広東で国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任する。この政府には、毛沢東ら中国共産党メンバーも参加していた(のち北伐開始後、政府は武漢に移る)。
民国15年(1926年)3月、中山艦事件により蒋介石との行き違いが生じ、汪は自発的に職責を辞任し、フランスに亡命した。民国16年(1927年)4月1日、蒋介石の招電に応じ、再度帰国。中央常務委員、組織部長に返り咲いた。同年に「中国国民党の多数の同志、およそ中国共産党の理論およびその中国国民党に対する真実の態度を了解する人々は、だれも孫総理の連共政策をうたがうことはできない。」と発表。なお、この直後の4月12日に蒋介石は上海クーデターにより共産党の弾圧に乗り出した。
さらに蒋は4月18日、南京に国民政府を組織して、共産党の影響が強い武漢政府から離反した。汪は武漢政府に残ったが、やがて「共産党との分離」を決意し、武漢政府内にて清党工作を進めることとなった。
「反共産党」で一致したことから、武漢政府と南京政府の再統一がスケジュールにのぼり、蒋介石が下野して両政府は合体することとなった。汪は新政府 で、国民政府委員、軍事委員会主席団委員等の地位に着いている。しかし共産党の広東蜂起の混乱の責任をとって汪は政界引退を表明し、再びフランスへ外遊す ることとなる。
一方国内では、独裁の方向に動き出した蒋と、その動きに反発する反蒋派との対立が生じる。汪は反蒋派から出馬を請われて帰国し、民国19年 (1930年)9月、北京にて国民政府を樹立したが、北京国民政府主席は戦局の不利を見てすぐに下野を表明し、政権は1日で瓦解した。汪は国民党から除名処分を受ける。
汪はしばらく香港に蟄居していたが、民国20年(1931年)5月、反蒋派が結集した広東国民政府に参画した。満州事変を機に蒋政府との統一の機運が高まり、民国21年(1932年)1月1日、蒋と汪が中心となる南京国民政府が成立した。汪はこの政府で、行政院長、鉄道部長を務めた。
民国22年(1933年)5月、汪は関東軍の熱河侵攻に伴う塘沽停戦協定の締結に関わった。実質的に満州国の存在を黙認するものであったが、これは汪の「一面抵抗、一面交渉」という思想の現れでもあった。汪はその後、政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めることとなる。

1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦とともに蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していったのである。

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