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2013年10月18日 (金)

司馬遷の史記について(その1概要)

司馬遷の史記について

1、経緯

天命がありながら何故悪が栄えて善が割りを食うのか?

司馬遷は、自分の体験も踏まえながらそのことに死ぬような思いをしなが思考を重ねて行く。その結果辿り着いた結論は、自分の転職として史記を書くに全力を尽くすというものであった。彼がそういう結論に達した経過を少し詳しく見ておこう。

司馬遷は、父・談が病気のため、封禅の儀式(ほうぜんのぎしき)に参加できない不運を嘆き、「ああ、これは私に与えられた天命か。俺に代って是非史記を完成させてくれ!」と言う父・談の悲痛な叫び声を聞いて、その決意をしたらしい。封禅の儀式とは、皇帝が天と地に自分の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式である。始皇帝以前には何人もの皇帝がこの儀式を行ったと『史記』には伝えられている。秦の、始皇帝が皇帝になったのちの紀元前219年に、泰山で封禅の儀を行ったが、このとき既に古い時代の儀式の知識は失われており、儒学者などを集めて封禅の儀式について研究させたが、各自意見がまちまちでまとまらず、結局我流でこれを執り行ったと伝えられている。その儀式の内容は秘密とされており、実際に何が行われたかはよく分かっていない。前漢の第7代皇帝・武帝の時、司馬遷の父・談は、封禅の儀式の準備を命ぜられ、それに数年間没頭していたらしい。それに参加できない不運を嘆く談の気持ちはよく判る。司馬遷は、何故、父・談がそのような不運に見舞われたのか、天命に対する不審に苛まれるのである。
さらに、司馬遷にはショッキングな出来事が襲う。彼の無二の親友・李陵(りりょう)が、匈奴の戦いに敗れて捕虜となり、宮廷で糾弾される。武帝からご下問を受けた司馬遷は李陵を弁護し、武帝の逆鱗に触れて、獄に繋がれる。当時、中国では、身分の高い人が語句に繋がれた場合、処刑されることはなく、自ら身を処するのが当然と考えられていた。司馬遷は、当然、自害するだろうと周りから見られていたが、史記を完成させよという父の遺命を果たすため、司馬遷は潔く死ぬわけにはいかなかった。彼は、生き恥をさらしながら、遂に、史記を完成させるのである。壮絶な生きざまである。
白川静は、史記は「運命の書」であると言う(「白川静の世界Ⅲ・・・思想・歴史」、2010年9月、立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所)。白川静は、「司馬遷が運命論を展開するのは、人が運命と対決しながらも、その自己貫徹を求めて名に殉ずる生き方の是非を問うためのものである。」と述べており、そういう意味で、史記は「運命の書」であると言っているのである。冒頭に掲げた「天命がありながら何故悪が栄えて善が割りを食うのか?」という基本的な問題を意識しながら、史記は書かれている。史記のおいて、歴史的事実、とはいっても司馬遷の創作的なものもあるようだが、歴史的事実を踏まえて、後世の人にも「天命がありながら何故悪が栄えて善が割りを食うのか?」という基本的な問題を意識してもらい、天命思想に対する思索を深めてもらおうという意図が隠されている。

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