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2013年10月 6日 (日)

盧溝橋事件(その2汪兆銘)

盧溝橋事件(その2汪兆銘)

先に述べたように、盧溝橋事件は支那事変(日中戦争)の直接の導火線となったのであって、そういう意味で、盧溝橋事件と支那事変とは一体不可分の出来事である。

支那事変は、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大した。8月の第二次上海事変勃発以後は中支(中支那、現中国の華中地方)へも飛び火、次第に中国大陸全土へと飛散し、日本と中華民国の戦争の様相を呈していった。ソ連は空軍志願隊を送り、中華民国側を援護した。

1941年(昭和16年)12月までは、双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。
事変の長期化と共にアメリカやイギリスは援蒋ルートを通じて重慶国民政府(蒋介石政権)を公然と支援。日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘を支援し南京国民政府(汪兆銘政権)を承認した。

汪兆銘は、1904年(明治37年)、清朝の官費生として日本の和仏法律学校法政大学(今の法政大学の前身)に留学。留学中に孫文の革命思想に触れ革命党に入党した。、翌年、孫文の来日を機に中国同盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。やがて清朝の意を受けた日本政府の取締りにより『民報』は発行停止に追い込まれ、孫文は根拠地をフランス領インドシナのハノイ、ついでイギリス領マレーのシンガポールに移した。孫文の信頼を得ていた汪も、孫文と行動を共にする。孫文がフランスへ去った後、汪はタイ王国以外は欧米の植民地支配下にあった当時の東南アジアにおける中国同盟会の勢力拡充に力を注ぐことになる。1912年、袁世凱が臨時大総統に就任したが、「皇帝」への野心を持つ袁世凱と孫文らの対立が表面化し(第二革命)、1913年、孫文は日本へ、汪はフランスへ亡命することとなった。袁世凱政府が崩壊して新政府が誕生すると、1917年、汪はフランスから帰国。孫文の下で、汪は広東軍政府の最高顧問を務めることとなる。1925年の孫文死去に際しては、孫文の遺言を起草。病床にて孫文の同意を得たと伝えられる。その後も汪兆銘はめきめきと力をつけていく。1933年、汪は関東軍の熱河侵攻に伴う塘沽停戦協定の締結に関わった。実質的に満州国の存在を黙認するものであったが、これは汪の「一面抵抗、一面交渉」という思想の現れでもあった。汪はその後、政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めることとなる。
汪兆銘は、一生親日を貫いた人である。私は、その点で汪兆銘を尊敬はできるが、残念ながら、日本国内政治で軍が独走し、もはや日本人が明治維新の精神を失ってしまっていたことを見抜けなかったようだ。その意味では孫文の意思に反する。きっと孫文は草葉の陰で嘆いていたことであろう。

そのようなことから、孫文の意思は蒋介石が受け継ぐこととなる。1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦とともに蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していったのである。日中戦争の非は日本側にある。それは、日本国内における軍部の独走ということであり、それを許した根本的な原因は枢密院の存在にある。

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