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2013年9月13日 (金)

日清戦争について

日清戦争について

日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年にかけて行われた主に朝鮮半島をめぐる大日本帝国と大清国の戦争である。朝鮮半島では、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。そのような中、1894年春に全羅道古阜郡で、崔済愚の高弟で東学党の二代目教祖となった崔時亨が武力蜂起した。反乱軍は全琫準という知将を得て5月には全州市一帯を支配下に置いた。これに驚いた時の政権は、清国に援軍を要請したのだが、天津条約にもとづき、日清互いに朝鮮出兵を通告し、日本は公使館警護と在留邦人保護の名目に派兵し、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。これが日清戦争の発端である。日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領した。ちなみに、日露戦争はその後10年後のことであるが、明治維新以降に軍の近代化を進めてきた日本は、日清戦争の時はすでに相当の軍事力を保持していたのである。翌年の4月17日、下関で日清講和条約が調印され、戦勝した日本は清から領土(遼東半島・台湾・澎湖列島)と多額の賠償金を得ることになった。しかしその直後、ロシア・フランス・ドイツが日本に対して清への遼東半島返還を要求した。いわゆる三国干渉である。日本は三国干渉を受け入れたが、私は当時の外務大臣睦奥宗光のさすがの外交感覚であったと思っている。明治の政治が懐かしい。近代日本は、大規模な対外戦争をはじめて経験することで近代国家に脱皮し、この戦争を転機に経済が飛躍したのである。さらに、日清講和条約と列強との外交力によって、日本はそれまで確定していなかった琉球の国境が確定するのである。現在、日本国民は、沖縄が日本であることは誰も当然だと思っているが、明治以降、中国とは領土争いがあったのである。この問題に関連して、この際、 琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)のことを説明しておきたい。
琉球処分とは、日清戦争の20数年前のことであるが、従来の琉球王朝を廃し、県を置いた日本の施策の事である。鹿児島県は、琉球王朝の施政は時世に合っておらず不都合が多いとして、指導のため、明治5年1月5日、奈良原幸五郎、伊地知貞香を送った。これに応じて外務省から次の3ヶ条の指示があった。伊地知らは国王にこれを伝えた。そして、明治5年9月14日、天皇より、尚泰を藩王に封じ、華族に列せらるる詔勅が下される。さらに、明治5年9月28日、琉球藩の外交権を、外務省に移す。琉球藩は清国との絶交命令に動揺し、以後、撤回するよう請願を繰り返す。1879年(明治12年)1月26日、松田道之再度琉球に出張し、清国との絶交を督促する。同意得られず。1879年3月27日、松田道之三度琉球に出張。首里城に入り、城の明け渡しと廃藩置県を布告した。清は、この動きに反発し、両国関係が緊張した。翌1880年(明治13年)、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに、沖縄本島を日本領とし先島諸島を清領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案した。清も一度は応じ仮調印したが、「清は八重山諸島と宮古島を望まず、琉球領としたうえで清と冊封関係を維持したままの琉球王国を再興させる」という李鴻章の意思よって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。最終的な領有権問題の解決は1894年(明治27年)の日清戦争後で、戦争に敗れた清は台湾を割譲とともに琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。琉球処分以降の、中華民国の、尖閣諸島を含む沖縄諸島の認識は、日本領として正式に承認し、両国間では一応の決着がついていたことが判明している。現在でも、中華人民共和国は公式の場にて日本の沖縄に対しての領有権を認めており、日中共同声明で日中両国の主権及び領土保全の相互尊重を表明している。

日本とは対照的に敗戦国の清は、戦費調達と賠償金支払いのために欧州列強から多額の借款を受け、また複数の要衝を租借地にされてしまった。その後、義和団の乱で半植民地化が進み、辛亥革命に向かうこととなる。

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