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2013年9月29日 (日)

満州事変(その3張作霖爆殺事件)

満州事変(その3張作霖爆殺事件)

張作霖爆殺事件と満洲事変に焦点を当てて、さらに突っ込んだ勉強をしておこう。満鉄と
その付属地域は満州の戦略的な要所に位置することから満州の軍閥の争いにも巻き込まれることもあり、1919年には満鉄職員に対する支那兵の暴行に端を発した寛城子事件が起き、日支両軍が衝突した。良好な関係であった現地駐留日本軍と支那軍(吉林派)との突然の衝突事件について、日支両軍にともに張作霖(奉天派)の謀略であったとする疑惑をもつこととなった。 昭和に入ると、満鉄は相次いで関東軍の陰謀の舞台となる。1928年
(昭和3年)6月4日、満鉄の車両が奉天付近で爆破され、乗っていた奉天派軍閥の領袖、
張作霖が死亡した。これが張作霖爆殺事件であり、中国人の犯行に見せかけた関東軍の陰謀であった。(ただし、これについては異説も存在する。)

首謀者・河本大作陸軍大佐は予備役に編入される(後に河本は満鉄の理事になる)。日本軍人の手で父を暗殺された張学良は、いっそう日本嫌いになり、排日政策を行った。満州中の貨物を満鉄から奪還する目的で、満鉄包囲戦の鉄道を敷設して葫蘆島に結び、さらに海吉(海龍-吉林)、奉海(奉天-海龍)、京奉の三線を結んで、吉林から奉天ま で直通列車を運転するようになった。張学良は、日本が敷設権をもっている鉄道の建設は許可せず、奉天政府の鉄道建設のために満鉄が与えた一億円の借款に対 しては、元利ともその支払いを拒否した。このため、昭和5年の満鉄の利益は前年の3分の1に落ち込み、2000人の従業員の解雇を発表しなければならな い、という窮地に陥った。
1931年(昭和6年)9月、満鉄の柳条湖付近の線路の爆破事件(柳条湖事件)は、満州事
変の発端となった。関東軍高級参謀・板垣征四郎、同参謀・石原莞爾らの陰謀であった。

関東軍は、当時満洲を支配していた張学良と戦闘状態に入り、圧倒的な軍事的勝利により、満洲全土を関東軍の支配下に置くことに成功した。当時、総裁内田康哉以下の満鉄首脳は事変の不拡大を望んでいたが、理事の中でただ一人事変拡大派であった十河信二の周旋で内田が関東軍司令官・本庄繁と面談すると、急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することになる。この満洲事変、および満州国の成立によって満鉄の性格は大きく変わることを余儀なくされる。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使となったが、この職は関東軍司令官が兼任していた。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入ることとなった。

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