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2013年9月20日 (金)

孫文とソ連

3、孫文とソ連

第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。陳独秀や毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。
国民党の指導者孫文はソ連の援助を受け入れたが,中国共産党との合作においては党と党との提携ではなく,中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合 作の形式を要求した。1924年1月,国民党第1回全国大会は〈連ソ・容共・労農援助〉の新政策を決定し合作は正式に発足した。この大会には165名の代表が参加,すでに国民党に入党していた多くの共産党員も参加した。大会は,〈大会宣言〉および党の〈総章〉〈政綱〉等を採択,そ の中で〈連ソ・容共・労農援助〉の三大政策(この名辞はのちに提唱されたものだが)を確立し,国民党の主義として三民主義に新しい内容を与えた。すなわ ち,反帝国主義と民族自決・国内各民族平等を内容とする民族主義、平民が自由と権利を享有し売国奴・軍閥の自由と権利を認めない民権主義、地権平均・資本 節制を実行し労働者・農民への援助と彼ら自身の奮闘によって彼らの生活の保障と解放をめざす民生主義、である。

1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいし東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。

1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした。 この宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年に中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。ボロディンの進言により1924年1月20日、中国共産党との第一次国共合作が成立。軍閥に対抗するための素地が形成された。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。1925年にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。
1925年、孫文は、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節を遺言に記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したもの)北京に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読。 霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使・蒋介石と共に廟後の墓の柩側に立った。孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲愷は暗殺され、蒋介石と汪兆銘とは対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。

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