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2013年8月12日 (月)

玄牝の門

私の電子書籍に「書評・日本の文脈」というのがある。
http://honto.jp/ebook/pd_25249964.html

その第4章「形はリズム」http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/bunmya04.pdf で、内田樹が能についての語りの中に「玄牝の門」というのが出て来る。

それに対し私は少し解説をしているのだが、その部分を再掲すると次の通りである。すなわち、
『能ってかなり変わった舞台構造ですよね。舞台の右側の隅に切戸口(きりどぐち)があります。お茶室の躙(にじ)り口と同じで、腰を屈(かが)めないと通れない小さな四角い穴が開いていて、いろんなものがそこから出入りする。(中略)舞台の上には目付柱(めつけばしら)とうのがあります。このはしらはどんな場合でも絶対必要なんです。能舞台ではなくて、劇場やホールで能をやる場合があるが、その場合でも必ず柱を一本立てる。
 面をつけると視野が狭くなりますから、目付柱がないと距離がわからずシテが舞台から落ちるから、という合理的な説明もされるんですけれど、僕はそれだけじゃないだろうと思うんです。切戸口というのは、中沢さんが言うとおり、子宮口ですよね。切戸口が老子の言う「玄牝(げんぴん)の門」だとすると、ちょうど対角線にある目付柱はファロス以外にはありえないようですよね。そう考えると能舞台はエロス的な構成になっていることがわかります。』

 上記の中で内田樹が言っている老子の「玄牝(げんぴん)の門」とは、「谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。」に出てくるのだが、この文は「万物を生み出す谷間の神は、とめどなく生み出して死ぬ事は無い。これを私は「玄牝(げんぴん) – 神秘なる母性」と呼ぶ。この玄牝は天地万物を生み出す門である。その存在はぼんやりとはっきりとしないようでありながら、その働きは尽きる事は無い。」と解釈されているので、「玄牝(げんぴん)の門」は女性の穴のことを言っていると思われる。ファロスというのは男性の性器である。

それでは、「中国的精神」を知る上で、老子の思想に関連する「玄牝の門」というものを深く知る必要があるので、以下において、その解説をしておきたい。

老子は、「宇宙の実在」を「道」と言っているが、時には、「天」と言ったり、「天地」と言ったり「谷神(こくしん)」と言ったりしている。上記の文は「 谷神(こくしん)は死せず。これを玄牝(げんぴん)と謂(い)う。玄牝の門、これを天地の根(こん)と謂う。緜緜(めんめん)として存(そん)する若(ごと)く、これを用いて勤(つ)きず。」と読むが、その意味は「谷間の神は奥深い所で滾々と泉を湧き起こしていて、永遠の生命で死に絶えることがない。それを玄牝(げんぴん)---神秘な雌のはたらきとよぶ。神秘な雌が物を生み出すその陰

門、それこそ天地もそこから出てくる天地の根源とよぶのだ。はっきりしないおぼろげなところに何かが有るようで、そのはたらきは尽きることがない。」という意味である。
老子はどうも、女が子供を産むということを終始念頭においていたようで、それに対する哲学的思考を重ね、宇宙の原理を悟ったらしい。

ハイデガーの根源学というのがある。私の論文「霊魂の哲学と科学」の第2章「呪力について」の中で詳しく述べたのでそれを是非ご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rei02.pdf

その要点のみここに述べておこう。
ハイデガーの「根源学」では、人間社会に実存している現象、木にたとえれば生い茂っている枝や葉のことであるが、枝葉を見てその根っこの部分を認識しようとするものである。根っこの部分とは、物事の本質を意味するが、それは目に見えない。目に見えないものをどう認識するのか。その方法が根源学である。
今ここでの文脈で言えば、「女が子供を産む」という現象をみて、それをもとに哲学手金思考を重ねて、宇宙の原理、万物生成の原理を考えたのが老子である。
老子は、「道、一を生じ、一、二を生じ、二、三を生ず。三、万物を生ず。万物は陰(いん)を負い、陽(よう)を抱き、冲気、もって和(わ)と為す」と言っているが、この文で、「道」は「宇宙の実在」、「一」は天地の始め、「二」は陰と陽、「三」は冲気の意味である。冲気とは陰と陽とを組み合わせるものである。一、二、三というのは、男子があり、女子がある、二になる、子供が産まれる、三になる、それからだんだん大勢子供ができる。そういうことを老子は着目し、根源的な思索を重ねていったらしい。
そういう風に万物が発生していくけれど、実在そのものは静かにじっとしている。万物はみな自然にそれから産まれるけれども、産みっ放しで一切干渉しない。ここで判りやすく言えば、大雑把ではあるが「実在」は「神」と考えて良いであろう。「神は万物を産むけれど、神は何も言わないで、静かにじっとしている。」・・・この考えはニーチェの神に対する認識と同じである。教会がいろんなことを言い過ぎるので、ニーチェは「神は死んだ」と言ったのである。老子の神の源流にシヴァ教をがあるが、ニーチェの憧れる神の源流にシヴァ教がある。
ニーチェの哲学については、私の電子書籍「さまよえるニーチェの亡霊」を是非読んでいただきたい。
http://honto.jp/ebook/pd_25249963.html

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