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2013年8月28日 (水)

枢密院が軍の台頭を許した!

枢密院が軍の台頭を許した

枢密院(すうみついん)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。明治21年に 創設され、戦後は当然廃止された大問題の組織であった。ド ナルド・キーンの著書によれば、明治に入って暫く経った明治7年12月、岩倉具視は、嘉永6年のペリー提督率いる米国艦隊の来航以来の激動の日々を振り返 り、その大勢を天皇に上陳した。岩倉は言う。廃藩置県、岩倉使節団の欧米派遣等々の大事が首尾よく成功を収めたのは、ひとえに国家の難局に際しての陛下の 英断に帰するものである。一方でまた、数々の悲惨な出来事があった。事実、混迷の20年を経た今、初めて国内は平和、四海また静穏になったと言えるかもし れない。これまでにも増して陛下は鋭意精励し、国家の大計の下に諸臣を育成し、上下一致協力して復古を旨とした維新の聖意を貫徹していかなければならな い。その成否は、ひとえに陛下の手綱さばき如何にかかっていると、岩倉具視はとんでもないことをご進講申し上げるのである。もともと公家である岩倉として は当然の考えであったかもしれないが、我が国の歴史認識からすれば、歴史の流れを無視した公家の発想であり、近代国家を歩み始めた日本としては当時も問題 視されていたのである。
伊藤博文のまったく正論というべき意見もあったということは決して忘れるべきでない。ドナ ルド・キーンの著書によれば、斬新派である伊藤は、天皇の将来の役割について深く憂慮していた。外債募集、及び地租米納論を否定した天皇の裁断は、もはや 受動的、象徴的役割にとどまることなく自ら重大な決定に積極的に関わりたいという天皇の意思の表明ではないか、と伊藤には思われた。伊藤が恐れたのは、こ のことが天皇の政治的責任問題の発生や、天皇制の是非を問う論議にまで発展するのではないかということだった。伊藤の考えでは、天皇はあくまで天皇を輔弼 (ほひつ)する内閣の象徴的な指導者としての役割を演じることが望ましい。特に伊藤は、政治的責任のない宮中派(公家)が天皇を通じて影響力を振るうこと を心配し た。それは内閣の国家運営の不安定に繋がるだけだ、と伊藤は考えた。伊藤博文の考えはまったく正しい。そのとおりだ。しかし、伊藤の上には、三条実美太政 大臣、たるひと親王左大臣、岩倉具視右大臣という三人の権威ある公家がいたので、さすがに伊藤といえども自説を押し通すことはできなかったようである。
ド ナルド・キーンの著書によれば、立憲改進党の党首・大隈重信も、改進党権勢大会で演説したように、立憲君主が率いる英国式議会制民主主義の確立を強く望ん でいた。ドナルド・キーンの著書 によれば、大隈重信は、その演説の中で、自分が考える民主政体における君主の・・・・積極的というよりはむしろ象徴的な役割を強調した。大隈重信は決して 皇室に献身的でなかったわけではない。同じ演説の中で、大隈重信は次のように述べている。「維新中興の偉業を大成し、定刻万世の基礎を建て、そして、皇室 の尊栄を無窮に保ち、人民の幸福を永遠に全うせんことを冀望(きぼう)する。」・・・と。
象徴天皇の考え方がすでにこの時期に大きな政治課題と して浮上していた ということは、私にとって、大変な驚きであるが、よくよく考えてみれば、それは必ずしも驚くに当たらないことかもしれない。そもそも幕藩体制の天皇は典型 的な象徴天皇であり、その起源は古くそもそも武家社会が発足した鎌倉時代までさかのぼる。すでに「武家社会源流の旅」で述べてきたように、いうまでもなく 象徴天皇の思想的裏打ちは明恵の「あるべきようわ」にある。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/bukesya2.html

伊藤博文や大隈重信の如何にも進歩的に見えながら実は歴史的にはそれがむしろ日本の伝統といえ る考えにもかかわらず現実の流れはそうは流れなかった。三人の権威ある公家の意向というか時代の流れというものが、憲法の草案作りの流れをも・・・・決め ていったようである。この年、板垣退助は凶徒から襲撃を受けあの有名な言葉「板垣死すとも自由は死せず!」を叫んだ。すべて時代の流れである。私が思う に、その大勢は王政復古がなった時点で固まったのである。明治憲法も王政復古が原点である。孝明天皇が生きていたら、公武合体がなったであろうし、違った 政治体制になっていたかもしれない。そうすれば伊藤博文や大隈重信の影響力がもっと発揮できたかもしれないと思うのだ。まことに残念なことである。
国務大臣の出席にしても、内閣と枢密院が対立すれば定数からいって採決では枢密院の案が通り、内閣が反対し続けるならば自ら参加した採決の結果に従わないこととなり筋が通らないこととなるので、国務大臣が採決に参加できるという規定はかえって内閣に不利に働いた。
軍 部は、気に入らない政策があると、「大臣が辞めて、大臣を出さない」という戦術を枢密院でも閣議でも使ったのである。大臣がいないと内閣は総辞職になるの で、枢密院でも閣議でもしぶしぶ軍部の言う事を聞かないといけないようになっていったのである。こうやって、軍部の発言力がだんだんと高まっていくように なった。

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