« 枢密院が軍の台頭を許した! | トップページ | 血盟団事件 »

2013年8月30日 (金)

枢密院による内閣の無力化

枢密院による内閣の無力化

枢密院と内閣の政策が対立した場合、話し合いによりどちらかが譲歩するケースが多かったが、1927年(昭和2年)には台湾銀行救済のための第1次若槻内閣による緊急勅令案を19対11で否決し内閣を総辞職に追い込んだ。
似たような問題として、1930年(昭和5年)、浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約の批准問題がある。このときは、条約批准を目指す政府(立憲民政党濱口雄幸)と、枢密院、軍部、鳩山一郎らを中心とする野党政友会が対立し、内閣が軍部の意向に反して軍縮を断行するのは天皇の統帥権を侵すものである(統帥権干犯)との非難が浴びせられ、加藤寛治軍令部長による帷幄上奏まで行われ、枢密院でも反浜口内閣の動きが大いに顕在化した。しかし、浜口首相は元老西園寺公望や世論の支持を背景として枢密院に対して断固とした態度で臨み、枢密院のボスとして知られた大物顧問官の伊東巳代治が要求した資料の提出を拒むほどであった。『東京日日新聞』をはじめとする大新聞も猛烈な枢密院批判で内閣を擁護した。だが海軍軍令部長加藤寛治大将など、ロンドン海軍軍縮条約の強行反対派(艦隊派)は、統帥権を拡大解釈し、兵力量の決定も統帥権に関係するとして、浜口雄幸内閣が海軍軍令部の意に反して軍縮条約を締結したのは、統帥権の独立を犯したものだとして攻撃した。そして、昭和5年11月14日、浜口雄幸総理は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職した(浜口8月26日死亡)。
その後、若槻第二次内閣は、若槻が内閣で軍をコントロールしたいという信念の持ち主であったため、軍は若槻の追い落としを狙っていた。そこで枢密院が利用されたのである。
先に述べたように、 軍部は、気に入らない政策があると、「大臣が辞めて、大臣を出さない」という戦術を枢密院でも閣議でも使ったのである。大臣がいないと内閣は総辞職になるので、枢密院でも閣議でもしぶしぶ軍部の言う事を聞かないといけないようになっていったのである。こうやって、軍部の発言力がだんだんと高まっていくようになった。明治以降の国家体制の中で最大の問題は、「枢密院」の存在であったのである。

« 枢密院が軍の台頭を許した! | トップページ | 血盟団事件 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/53079678

この記事へのトラックバック一覧です: 枢密院による内閣の無力化:

« 枢密院が軍の台頭を許した! | トップページ | 血盟団事件 »