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2013年8月 2日 (金)

最終章第3節(2)

邪馬台国と古代史の最新

第10章 邪馬台国は近江だ!

第3節 物部氏と台与

2、物部氏に関わる遺跡について

平成24年10月28日に天理文化センターで、『国宝「七支刀」の謎』と題して、シンポジュームが開かれた。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_10_28.htm

そのシンポジュームにおいて、天理大学付属参考館の日野宏先生が、次のように述べられた。すなわち、

『 布留遺跡は天理市周辺では最大の遺跡で、旧石器時代から現在まで連綿と続いてきた複合遺跡である。天理参考館は1976年から78年にかけて布留遺跡の範囲確認調査を実施した。その結果、遺跡は布留川を挟んで、現在の天理教本部を中心に東西2キロ、南北1.5キロの規模を持つ広大な範囲を占めることが判明した。旧石器時代から人が住んでいた痕跡があるが、5世紀から6世紀の古墳時代に大きく発展した様子が伺える。
 遺跡の南側には杣之内(そまのうち)古墳群が あり、全国でトップクラスの首長墓が築かれていて、布留遺跡に大豪族がいたことが分かる。布留遺跡と石上神宮との位置関係から、布留遺跡は物部氏の拠点集 落だったと考えられている。そのことを裏付けるように発掘調査では、住居跡以外に多数の祭りに関わる遺物や、玉工房や武器工房との関連を示す遺物などが見つかっている。
 天理教本部近くの樋の下・ドウドウ地区では、幅が15m、深さ12m規模の人工の大溝が 築かれている。『日本書紀』には履中天皇のとき溝を掘るという記述があり、その溝に相当すると考えられている。しかし、付近の岩盤は固く、高度な技術を 持った渡来工人の関与が指摘されている。その大溝の近くで、碁盤の目のように整然と配列された2棟の建物跡が見つかった。高床の倉庫跡と推測されているが、その規模は東西9.1m、南北6.6mもあり、5世紀の総柱建物である南郷遺跡や法円坂遺跡、鳴滝遺跡の倉庫跡の規模に比べても、そん色がない。
 また、布留川の両岸の石敷きの上から祭祀跡が見つかっており、そこから祭祀用土器や祭祀用玉、滑石で造られた剣形石製品などが多く出土している。特に注目すべきは、円筒埴輪10個分、朝顔型埴輪15~16 個分の破片が見つかっている。通常、これらの埴輪は古墳の墳丘部に設けられて聖域を画すためのものだが、布留遺跡の中には古墳はない。そのため、祭祀の場 所を囲うために用いられたようだ。しかも、この時期の埴輪としては穴が多いのが特徴で、段だらに赤とか白を色分けてしている。
 物部氏が軍事氏族であったことを示す遺品としては、1500年前の皮の中から鞘や柄など多くの木製の刀装具が60個出土している。その数は全国最多である。また、布留遺跡は、大量の管玉や滑石製の玉、ガラス製玉鋳型やかなさしを出土しており、玉造り遺跡としても有名である。さらに鉄滓や鞴(ふいご)の破片なども見つかっていて、鍛冶集団がいたことが分かる。
 鍛冶は当時の最先端の技術であり、物部氏が半島の百済や加耶から最先端技術を携えてやってきた渡来人を配下に抱えていたようだ。そのことは、百済の地域に特徴的な鳥の足を形をした鳥足文の土器や、高坏の下の部分にオタマジャクシの形の透かしし穴を持つ咸安地方独自の土器が発見されていることからも明らかである。』・・・と。

物部氏も大勢の渡来系技術集団を配下に擁していた事は注目すべき点であり、大陸との交流があった事は明らかだ。しかし、その時期がはっきりしない。私は、邪馬台国近江説の立場であり、物部氏が近江の邪馬台国から台与を大和に引っ張ってきて、台与の祭祀を引き継いだと考えている。そして、その大和に入ってきた時期を三世紀の終わり頃と見ているが、実は、時期が問題なのである。もし、台与が女王に擁立されてしばらく経ってから大和に来たのであれば、邪馬台国は近江だという可能性が高くなる。その点については、今後のさらなる発掘調査と研究が必要である。それを期待したい。
したがって、現時点では、物部氏が女王台与を大和に引っ張ってきたと私が主張するからには、私なりに、その動機を推察しなければならない。あくまで推察に過ぎないけれど、私は、邪馬台国の時代に宗教革命が起こって、いわゆる銅鏡祭祀が銅鐸祭祀に取って代わった。そして、それにともなって石上神宮の神が三輪山の神に取って代わった。私は、石上神宮の祭祀は台与の祭祀を引き継いだと考えている。 物部神道の誕生である。 その後、葛城氏と物部氏が政治的に対立するようになり、葛城氏と物部氏との勢力争いは葛城地方で蘇我氏が大きな勢力を持つまで続くのである。そして、遂に、蘇我蝦夷と入鹿によって、物部守屋は殺されてしまうのである。蘇我氏と物部氏との争いは、谷川健一が言うように、宗教上の争いではなくて、単なる権力闘争なのである。その権力闘争は、葛城山麓における蘇我稲目の時代に始まった。私は、以上のように考えている。そのことはすでに第5章の葛城王朝のところで説明した。蘇我氏と物部氏の権力争いは、宗教上の争いから始まった。したがって、神道、当時は物部神道であるが、その始まりは、台与の祭祀である。台与の祭祀こそ、わが国が世界に誇る「神道」の源流は台与の祭祀である。

この最終章は、私が「邪馬台国は近江だ!」と考える根拠を書いたものです。もちろん、今ままで縷々述べてきた第1章から第9章までの内容が最終章の背景としてある訳ですが、この本の最終結論はこの最終章です。もっとも大事な章ですので、第1節から第3節までその内容ごとに分類しながら、紹介していきたいと思います。しかし、一気に最終章全体を読みたい方のために、章全体をアップしておきます。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai10.pdf


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