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2013年8月 6日 (火)

邪馬台国と古代史の最新「はじめに」

邪馬台国と古代史の最新

はじめに

古代史の最新情報の最たるものは、元伊勢神宮の籠(こも)神社の秘仏が国宝として公開された海部氏の系図である。その他、開発にともなう発掘調査によって新たな発見が目白押しだ。それら古代史の最新情報と新たな歴史認識にもとづき邪馬台国は近江であることがほぼ確定的に思われる。

記紀は、藤原不比等の深慮遠謀による素晴らしい創作物語であるが、不比等の深慮遠謀とは何か? それを読み解かない限り古代史の真実は見えてこない。

もう一つ大事なことは、古代における交易が大陸まで含めて広範囲に行われていたことを十分認識することである。そのためには「海の道」と「翡翠の道」の実体を理解しなければならない。

滋賀県守山市の伊勢遺跡は、昭和56(1981)年に民間の宅地造成工事に先立って実施した試掘調査によって発見された。その後、平成19年3月までに実施した104次にわたる発掘調査で、伊勢遺跡は東西約 700m、南北約450mの楕円形状に形成されていることが明らかになっている。平成13年に巨大な祭殿とみられる建物跡が見つかった。その他の大型建物も多く、地元では邪馬台国近江説を唱える人が多い。

糸魚川市に近い新潟県境に境A遺跡(富山県朝日町)というのがある。ここの遺跡調査については、昭和59・60年、北陸自動車道建設に先立って、県教育委員会が実施した。その結果、極めて重要なことが判った。境A遺跡は、硬玉原石の集散地であり、加工を行っていた拠点集落である。数千点にもおよぶ原石、加工途中の未製品が出土している。完成品は交易で他所へ運ばれたらしく余り出土していない。そういうことが判明したのである。発掘調査によって出土した遺物のうち、硬玉(ヒスイ)を中心とする玉類製作関係遺物、蛇紋岩を用いた磨製石斧製作関係遺物、縄文土器、石器類など2,432点が、平成11年6月に、国の重要文化財に指定された。

ガラス釧(くしろ)が、平成10年9月に、与謝野町岩滝の阿蘇海と天橋立を見下ろす高
台に作られた弥生時代後期(西暦200年頃)の墳墓(大風呂南1号墳)から出土した。
鮮やかなコバルトブルーのガラスの腕輪が完全な形で出土したのは国内で初めてで、今では国の重要文化財になっている。
 奈良国立文化財研究所の成分分析によれば、中国産のカリガラス製である可能性が高いことが判った。その他にも銅釧13・ガラス勾玉6・管玉363・ 鉄剣15・鉄鏃など
当時の貴重品が多数埋葬されていた。当地方には、古代から日本海ルートで大陸と交流する強大な力を持った集団が存在していたのである。

また、平成11年には、和歌山県御坊市の堅田遺跡から、弥生前期後半の青銅器を作るた
めの日本最古の鋳型が見つかった。これは九州で発見されたものより古い。したがって、
渡来文化がいったん北部九州や出雲地方にもたらされ、しばらく経って近畿地方に伝わっ
たという従来の考えを完全に覆すもので、渡来の波は西日本一帯に、一気に押し寄せたと
考えざるを得ない。その中心的な地域として丹後が今浮かび上がってきている。
さらに、平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後
半の大きな墳丘墓が発掘された。紀元前1世紀ごろのものである。30m×20mほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさである。墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかった。しかも、墓に接するように環濠集落があるようだが、これについては今後の調査が期待される。この墓は、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代で、墓の大きさも吉野ヶ里よりわずかに小さいが、吉野ヶ里の場合は、墳丘墓には十数体の遺体が埋葬されているのに対して、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓である。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王の墓」と考えられる。
 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられているが、
丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけだ。

阪和高速道路の延伸工事が平成15年完成目途に「みなべ町」で始まったが、それに先
立って平成9年から、埋蔵文化財発掘調査が南部インター チェンジ(約6万㎡)の建設
地予定地を中心に行われた。その発掘調査で、5000年前(縄文時代中期前半期)の集
落跡が出たのである。これまで西日本では、同時代の集落は出土しておらず、考古学上の
空白期とされていたので、「みなべ町」の発掘調査は画期的なものとなった。この遺跡は
「徳蔵地区遺跡」と名付けられている。

「海部氏系図」(以下、「本系図」とも記す)は歴代相承の秘伝として扱われてきたことで、みだりに部外者の拝観が許されず、明治以降その原本について親しく調査した学者はきわめて少なかったといわれる。 その内容は、『與謝郡誌』(大正十二年〔一九二二〕刊)等で一応学界に知られており、昭和八~九年には石村吉甫・山本信哉両氏による紹介・検討もあったが、全体写真は公表されず、詳細な調査もなかった模様である。
 東大史料編纂所に長く勤めた中世史料学の大家・村田正志博士は、「かような稀世の古文献は、ただに海部氏の家寶たるばかりでなく、國家社會の文化財であり、重寶であることは今更言を俟つまでもない」という認識のもとに、昭和四九年、当時の宮司故海部穀定(よしさだ)氏の承諾を得て、赤松俊秀京都大学教授、山本信吉氏(信哉氏の子息で当時、文化庁勤務)とともに、原本について仔細に調査した。これをうけて、村田博士などの骨折りで、本系図がその重要性を高く評価され、昭和五十年(一九七五)六月に重要文化財に、その翌五一年六月には国宝に指定されたものである。

 こうした経緯は相当程度迅速に国宝に指定されたものといえよう。それ以前には、本系図についての論考が非常に少ない状況であり、戦前の石村吉甫氏、戦後 では昭和四七年の後藤四郎氏の論考が目立つ程度である。その後、現在に至ってもあまり多くはなく、滝川政次郎氏、金久(かねひさ)与市氏の論考・著作などがあるが、国宝指定という事情を踏まえてか、海部氏系図についてその評価の高いことを陳述するものはあれ、疑問提起や史料批判をするものは管見に入っていない。

そういう状況の中で、宝賀寿男が「本系図」に対し、見識ある批判的検討を加え、次のように述べている。すなわち、
『 いま、国宝・重文に指定されている貴重な系図は少ないが、そのなかでも国宝指定の「海部氏系図」(あまべしけいず) は著名である。その国宝指定の経緯を見るところ、検討や指定の過程は拙速であり、問題点がないとはいえない。加えて、この系図の基礎的な問題点が多くある ことを捨象して、「国宝指定」という事情だけで、記事内容に史実性があると考える論及が多く見られる。それどころか、海部氏系図やその関連系図を基に妄論 を展開する書や論考もかなり見られる状況でもある。
 こうした風潮に対しては、冷静な検討と系譜利用の限界を考える必要があると思われる。』・・・と。

宝賀寿男の批判は当然であろう。しかし、私は、第3章で詳しく述べるように、海部氏の系譜に連なる王が全国に先駆け丹後の地に誕生したことは確かであろうと考えている。そういう見地に立てば、「前ヤマトを創った大丹波王国・・・国宝・海部系図が解く真実の古代史」(伴とし子、平成16年1月、新人物往来社)は新たに古代史を研究する上で必読の文献であると言えよう。伴とし子は学者ではないけれど、「本系図」を永年研究し、丹後の古代史を深く考えてきた人である。彼女の研究はもちろん「本系図」の公開が切っ掛けになって始まった訳で、そういう意味では、私は「本系図」は邪馬台国と古代史の最新情報であると言って良いと思う。「本系図」については、今後さらに学問的な研究が広範囲に進むことを期待したい。なんせ国宝なのであるから・・・。


歴史学のみならずあらゆる学問及びその他本格的な登山などで、その時々において難しい判断を必要とするものは、直観力がないと卓越した判断はできない。そのことは、今西錦司の言動をつぶさに見ればよく解る。
歴史的直観力というものは、歴史学だけでなく、その他歴史に関連する民俗学などの知識
を持って、現地で地霊の声を聞かなければならない。その地域の風土というものを感じ取
ることが大事なのである。私は,歴史的文献や考古学的知見によって古代を知ることが基
本であるとしても、それだけでは不十分で、現在そこにあるものから古代を推察すること
が大事なのである

アナール派の代表的な存在として鶴見和子がつとに有名であるが、彼女の考えていたよう
に、歴史が進化や段階を経ると見るのではなく、古いものの上に新しいものが積み重なっ
ていくと見る視点(「つららモデル」)は誠に大事である。また、ハイデガーの「過在」
というのは、過去に過ぎ去ってしまったと思われるものでも現在もなお存在しているとい
う一つの哲学であるが、彼は、樹木に譬えて、現在見える枝葉を見て見えない根っこの部
分を考察する「根源学」というものを提唱しているが、判りやすく言えば、過去に過ぎ去ってしまったと思われるものでも現在もなおその名残が残っているのである。私は、歴史の連続性というものを重視していて、歴史的な出来事というのは、何らかの形でその後も影響を与えているので、「過在」をみて過去のことを考察することが大事であると考えている。地理学という学問があり、その権威にオギュスタン・ベルクという人がいる。彼は和辻哲郎の「風土」というものが一体どういうものかまったく理解ができず、それを勉強するために日本に移住してきた人であるが、彼は「風土」とは自然の赴きであり、歴史の赴きであると言っている。プラトンの「コーラ」も「風土」みたいなものであるが、私はオギュスタン・ベルクの「風土」やプラトンの「コーラ」に加えてさらに、人びとの生きざまがその土地に染み込んだものが風土であると考えているが、そこにそういうものが何故あるかを問うものが哲学を含む地理学である。現在見える枝葉を見て見えない根っこの部分を考察する「根源学」といっても良い。例えば、最澄のことを考えてみよう。彼は比叡山の琵琶湖側・坂本の出身であるが、最澄のような偉大な人が何故近江から出たのか? その答えは渡来人が多かったということだが、では何故琵琶湖周辺に渡来人が多かったのか? それが根源的な問題であって、地理学的というか哲学的というか、根源学的な考察をしていけば、多分、琵琶湖周辺に渡来人が多かったのは、邪馬台国が近江にあったということがほんのり見えてくる筈である。

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