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2013年7月14日 (日)

邪馬台国と古代史の最新 第5章第2節

邪馬台国と古代史の最新

第5章 葛城王国

第2節 葛城山麓の遺跡

現在、近畿圏の外郭環状道路の一部として京奈和(けいなわ)自動車道が建設中だ。京都市を起点として奈良県を北から西に抜けて和歌山市に到る全長約120kmの高速道路である。 そ こで、橿考研は平成21年7月から道路計画地の約6500平米について発掘調査を実施してきた。橿考研は、平成22年1月21日、それまでの発掘の成果をマスコミに公表し、4世紀前半に活動した豪族の館か祭りの場の可能性のある遺構が見つかったことを明らかにした。そして、付近一帯の古名にちなんで、この調査地を「秋津遺跡」と名づけた。
秋津遺跡の南西方向には、この地方で有名な古墳がある。 宮山古墳という。御所市大字室に所在するので、別名を「室の大墓」とも呼ばれている。 5世紀前半の築造で、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の墓の有力な候補とされている。 葛城襲津彦に関する逸話は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀、応神天皇紀、仁徳天皇紀などに記されていて、実に魅力的な人物である。 4世紀から5世紀にかけて対朝鮮外交や軍事に携わり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている。彼が連れてきた渡来人たちは、葛城山麓 に住み着き、鍛冶生産(武器・武具などの金属器)を始めとする様々な手工業に従事し、葛城氏の経済力の強化に貢献したとされている。その一方で、襲津彦は 特定の実在人物ではなく、4~5世紀に対朝鮮外交や軍事に携わった葛城地方の豪族たちの姿が象徴・伝説化された英雄であったと見る説もある。 渡来人の高い生産性に支えられた葛城氏の実力は極めて巨大で、記紀によれば大王家のそれと肩を並べるほどだった。そうした経済力や政治力を背景に、葛城氏は5世紀の大王家と継続的な婚姻関係を結んだ。また、記紀によれば、襲津彦の娘・磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生んでいる。こうした婚姻関係から、歴史学者の直木孝次郎氏は、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと指摘された。
北葛城は二上山の東北方面、水平距離で6kmほどの所に、有名な馬見古墳群(うまみこふんぐん)がある。 葛城襲津彦の後裔たちの墓域ではないかと考えられている。さあここで葛城地方の地理的な説明を少ししておきたい。
葛城地方の西側は金剛山地である。金剛山地の最高峰は金剛山(1125m)で、北に向かって葛城山(959m)、二上山(517m)と続く。中央にあるのが葛城山で、その東側・御所市の秋津遺跡や葛城襲津彦の墓と見なされている宮山古墳がある。葛城山の北に二上山があり、その近くに 葛城襲津彦の後裔たちの墓域ではないかと考えられている馬見古墳群(うまみこふんぐん)があるという訳だ。
馬見古墳群(うまみこふんぐん)のマップについては、次を参照されたい。スケールを小さくすると二上山が出てくるでしょう。
http://kofun.info/kofun/775

一方、南葛城には、金剛山東麓に約1km四方にわたって展開する古墳時代中期の大集落・南郷遺跡群がある。1995年に発掘調査された南郷安田遺跡を はじめとして、さまざまな遺跡が見つかっており、5世紀の第2四半期には、葛城氏の手によって渡来系の技術集団が計画的に南郷地区の配置され、大量の手工 業製品を生産する当時の「工業団地」が出現したことをうかがわせる。南郷遺跡群についてはのちほど述べるとして、秋津遺跡の説明を続けよう。
このたび秋津遺跡で4世紀前半の祭祀(さいし)の場とみられる施設跡が発見されたことは、襲津彦以前の葛城氏の実態を探り出す手がかりになるかも知れない。和田萃・京都教育大名誉教授は、4世紀 前半の大和盆地に“東の纒向(まきむく)、西の葛城”の二大勢力があったことがはっきりした、とコメントしておられる。
橿考研の発表では、この遺跡の活動の中心は古墳時代前期の4世紀 前半とのことだ。近くに築かれた宮山古墳(室の大墓)の築造年代は古墳時代中期の5世紀前半とされている。仮に宮山古墳の被葬者が葛城襲津彦と仮定して、 襲津彦から1世紀もさかのぼる時代に、葛城氏はすでに南葛城を支配下におくことができたのだろうか。
この地域は古代氏族鴨族が盤踞していたとされている。弥生時代の中頃、鴨族の一部が金剛山の東斜面から大和平野の西南端にある今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波(かもつは)神社をまつって水稲栽培をはじめた。また御所市東持田の地に移った一派も葛木御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作を行っていたとされている。鴨都波神社のある付近には鴨都波遺跡がある。この遺跡では弥生時代中期(前1世紀)から末期(3世紀)さらに古墳時代前期(4世紀)に続く墓が見つかっている。鴨都波遺跡を営んだのは鴨族だったのか、それとも葛城氏だったのか。

何時のころか、葛城山麓を離れた鴨族の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して定着して鴨氏になったとされている。 一方、『新撰姓氏録』によれば、応神14年に渡来したとされる秦氏も当初は「大和朝津間腋上地(わきがみのち)」に住んだようだ。腋上は秋津のすぐ近くである。秦氏も鴨族の移住と時を同じくして、京都盆地に入り込んだと思われる。
北葛城にいた葛城氏が紀州への路を確保するために南葛城に進出してきたのであれば、古代氏族の鴨氏や渡来氏族の秦氏との軋轢がこの地方で起きたと想像するのは、それほど突飛ではあるまい。葛城襲津彦の先祖たちは、これらの氏族を南葛城からどのように駆逐したのだろうか。

南郷遺跡群は、金剛山東麓の広い範囲に及ぶ集落遺跡である。古墳時代中期(5世紀)に盛期があり、古代の豪族葛城氏の活動拠点のひとつであったと考えられる。丘陵頂部を中心に様々な性格を持つ遺跡である。渡来人系の工場従事者が居住した一般集落、武器・銀製品などの工房、生産する人を統括した渡来人の屋敷、倉庫群、導水施設、祭殿などがある。
また、平成17年に調査された極楽寺ヒビキ遺跡も遺跡群の範囲に含まれると考えられる。極楽寺ヒビキ遺跡では、石垣に囲まれた区画の中に巨大な建物が建てられ、集落全体の祭祀が行われていたと考えられる。ヒビキ遺跡については、次を参照されたい。
http://sanzan.gozaru.jp/panorama/pa/panorama14.html
http://bunarinn.fc2web.com/kodaitatemono/hibiki/katuragihibiki.htm

なお、遺跡ではないけれど、名所旧跡、すなわちハイデガーのいうところの「過在」として、「九品寺」について触れておかねばなるまい。この九品寺を知らずして葛城を語る事なかれと言われているからである。白州正子は、著書「かくれ里」(1991年4月、講談社)で、「九品寺は、居ながらにして大和平野の大部分が、視界に収まる大パノラマだ。葛城が神山とされたのも、葛城一族が大和に君臨したのも、このような眺望に触れると合点が行く。」と述べている。九品寺については、次のホームページが素晴らしいので、ここに紹介しておきたい。下の画像は、そのホームページのものである。
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_09_07.htm

なお、白州正子は、上述の通り、葛城とは神の山の存在する所であると言っている。神の山、三輪の「三輪山」に匹敵するのがこの地では葛城山である。葛城山については、御所市が素晴らしいホームページを作っているので、その中から葛城山を中心とする名所旧跡を紹介しておきたい。
葛城の道:http://www.city.gose.nara.jp/kankou/gra/1katsuragi_0.html
巨勢の道:http://www.city.gose.nara.jp/kankou/gra/2kose_0.html

上山については、冒頭に述べた。二上山、葛城山、金剛山という三つの山が葛城の聖なる山であるので、次は、金剛山の葛城神社のホームページを紹介しておきたい。

http://金剛山.jp/KaturagiJinja/KaturagiJinja001.htm
(これはリンクが張られていないので、これをコピーしてURL欄にペースとして下さい。そうすれば見れます。)


画像なども含めたの第2節の詳しい内容、ならびに第1節「葛城という所」、第3節「王朝交代説」、第4節「葛城氏の衰退」など第1章の全体は次の通りである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai05.pdf

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