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2013年7月 2日 (火)

邪馬台国と古代史の最新 第2章第2節

邪馬台国と古代史の最新

第2章 古代の歴史を概観する

第2節 黒曜石文化から縄文文化へ

人類学では、かつては世界の三大人種をネグロイド、コーカソイド、モンゴロイドと呼んできたが、 今日ではそれぞれ主な居住地域から、「アフリカ人」、「ヨーロッパ人」、「アジア人」という呼び方で分類している。「アフリカ人」は、ホモ・サピエンス誕 生以来ずっと故郷の地に暮らし続ける肌の黒い人々。「ヨーロッパ人」はアフリカを旅立ったのち、東に向かったわれわれの祖先たちと別れ、欧州に住み着いた 人々を指す。そして、太陽の昇る方向を目指して長い旅を続けた集団を「アジア人」と呼ぶ。
 「ヨーロッパ人」と別れて東に向かった一団は、大きく二つのルートに分かれる。故郷アフリカの温暖な気候を求め進んだ「南回廊」と、極寒のシベリア平原を進んだ「北回廊」である。
 「南回廊」は西アジアから南アジア、インドネシア(スンダーランド)を経由しつつ、中国南部から朝鮮半島を抜け対馬海峡を越えるか、柳田国男の唱えた「海上の道」、つまり琉球諸島を北上するルートをたどる。
 一方、「北回廊」はシベリアを越え、サハリンから北海道へと到るか、モンゴル、中国北部を経由しながら朝鮮半島を通って日本へ到達するか二つのルートをイメージしてもらいたい。詳細に見れば四つのルートだが、大きくは「北回廊」と「南回廊」という二つの道である。

 二つの道を別々に歩んだわれわれの祖先たちは、それぞれ旅の途中で人類史上に燦然と輝く偉大な記録 を残している。北回廊を歩んだ人々は、温暖地方でしか生きられなかった人類にとって初めての「寒冷地克服」という快挙を成し遂げた。そして南回廊にコマを 進めた人々は、陸地しか移動できなかったヒトが、初めて海を渡るのに成功するという「海洋適応」を果たしたのである。
 この二つの偉業をともに成し遂げたのが、いわゆるモンゴロイド、つまり私たちアジア人の祖先たちで ある。そして先ほども言ったように、その私たちアジア人の祖先たちのうち、一部がベーリング海峡を渡ってアメリカ先住民の一派となった。アメリカ先住民の 一派なども広い意味の「アジア人」つまりモンゴロイドである。

さて、最初の日本人であるが、私は、5万年前頃、最初の日本人は黒潮に乗って渥美半島に上陸したのではないかと想像しており、長野県は飯田市山本の佐竹中原遺跡の調査結果を見 守っているが、今のところそれが果たして5万年前の遺跡なのかどうかは確定していない。佐竹中原遺跡がおおよそ5万年前頃の遺跡ではなかろうかと考えている考古学者も少なくないが、私もそのように考えている。私が昔、飯田市山本で泊まったとき、宿の女将さんがこの付近ではこんなのが出るんですよと言って見 せてくれた石器を見て、中央道の建設工事のときに発掘された石器が日本最古のものではないかと噂されていたことを思い出し、なるほど黒潮に乗って渥美半島 に到来した人々が豊橋から設楽を通って飯田市までやってきたのではないかと想像したのを思い出している。
私は、黒潮に乗って渥美半島に上陸した一派あるいは他のグループが伊豆半島を越えて熱海までやってきたと考えている。熱海の旧石器人は、造船と航海技術に長け、駿河湾と相模湾を自由に行き来していたようであるが、その人たちの中から東京湾を越えて岩手県までやってきた人たちがいたのではないか。黒潮は伊豆半島付近で誠に複雑な流れをする。ぼやあっとしているとジョン万次郎のようにアメリカまで漂流せざるを得ない。沿岸流をうまくとらえながら、北上するのはよほど航海技術に長けていないといけない。しかし、熱海の「海の民」はそれが可能であった、と私は考えている。こういうことを考えていくと、岩手 県に最初の人々がやってきたのは、おおよそ4万年前頃と思われる。私の考えでは年代を通常考えられている年代よりも相当引き下げざるを得ないが、それにしても4万年前の岩手県に既に 人々が住んでいたということは凄いことである。
縄文時代になると、西日本から多くの人々が東北地方にもやってくる。しかし、北海道から津軽海峡をわたって東北地方にやってくるのは、「湧別技法集 団」の南下まで待たなければならない。「湧別技法集団」の南下によって、初めて土器が誕生するので、東北地方の発展を考える場合も、「湧別技法集団」の南下というのは重大な意味を持っている。土器というものは、「湧別技法」という高度な技術をマスターした人々が発明した。そのことについては、私の次のホー ムページを参照されたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyokigen.html

私は、黒潮に乗って渥美半島に上陸した最初の日本人が長野県は飯田市までやってきたのは、おおよそ5万年前頃ではないかと考えているので、これらの人々が諏訪湖まで遊動していって、その周辺で子孫を増やすのはそれ以降のことである。最初の日本人のひろがりがもととなって、八ヶ岳山麓の一種独特の文化 が作り上げられた、と私は考えており、旧石器時代や縄文時代の文化を知るには、八ヶ岳山麓がいちばん良いと思う。時代はずっと下って縄文時代となるが、か の有名な「縄文のビーナス」を生み出すのも八ヶ岳の縄文文化である。

以上は第2章「第2節「黒曜石文化から縄文文化へ」を紹介したものである。先のブログでは、第1節「歴史認識の重要性」の要点を紹介したが、そのさらに詳しい説明、並びに第3節「縄文時代の技術と交易」と第4節「渡来人の技術移転」については、次をご覧戴きたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai02.pdf





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