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2013年7月 3日 (水)

邪馬台国と古代史の最新 第2章第3節

邪馬台国と古代史の最新

第2章 古代の歴史を概観する

第3節 縄文時代の技術と交易(要点)

「 縄文文化という世界最高の文化がヨーロッパや西アジアに先駆けて4000年ほどはやくこの日本に誕生した」ということをアッピールしだしたのは,小林達雄である。小林達雄には、「縄文土器の研究」(2002年4月,学生社)ならびに「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)というすばらしい著書がある。 彼は、「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房) では次のように言っている。すなわち、

『 土器の製作開始は,重大な技術的革新性を意味するのではあるが、世界のあちこちで独立して発明された訳ではない。その多くは発明地からの伝播をうけて普及したものである。しかし,発明地は一カ所ではなく,少なくとも三カ所はあったと考えられる。その一は,西アジアであり、土器出現の過程が詳細に捉えられている。9000年前頃と大方の研究者は結論づけており,その年代には今後とも大きな変動はないであろう。その二は、アメリカ大陸であり,アマゾン河流域に 古い土器の存在が確認されている。しかし,遡ってもせいぜい7500年程度である。よりふるい時の新発見があれば、それがそのまま新大陸において独自に土器の発見された年代更新ということになるが、いまのところ一万年の大台には決して届かないものと予想される。その三が日本列島を含む東アジアであり,一万年をはるかに超える古さに遡り,西アジアにおける土器製作の開始年代を少なくとも4000年以上も引き離して断然古い。』・・・と。

 世界に先駆けること4000年ですよ。4000年! 縄文時代に,世界最高の文化がわが国で花開いていたということである。これは私たちの世界に誇るべきことではないか。私は、日本の中小企業の技術は世界に冠たるものを持っていると考えているが、その源(みなもと)は縄文時代まで遡る。否、黒曜石の加工技術、湧別技法を考えると旧石器時代にまで遡(さかのぼ)る。

縄文時代に黒曜石が随分遠くまで運ばれている。その目的は交易かそれとも部族同士の交流なのか? その点について考えてみたい。

例えば、八ヶ岳のが黒曜石が三内丸山遺跡まで運ばれているが、伊豆の黒曜石が阿賀野川の津川という所まで運ばれている。津川にある「小瀬が沢洞窟」と「室谷洞窟」という二つの遺跡は、阿賀野川水系只見川に近いところにある。 私は、津川の遺跡について書いたことがあるので、まずそれを紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyokigen.html

小瀬が沢洞窟と室谷洞窟 は,特別の技術集団の工房であった可能性が高く,それが故に,北海道産の黒曜石や神津島の黒曜石がそこに運ばれてきたらしい。私が上記のホームページで提起した問題は,何故その場所が特別の技術集団の工房に選ばれたかということである。「縄文文化の起源を探る・小瀬が沢・室谷洞窟」(小熊博史、2007年5月、新泉 社)では,その理由として,その場所が地理的な要衝だからと言っている。私もそう思う。しかし,何故そこが地理的な要衝なのかについては,小熊博史の説明 では腑に落ちないところがある。そこで、黒曜石7不思議の七つ目の不思議として、「何 故, 小瀬が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という問題提起したのであるが、「何故、そういう交通の要衝に小瀬が沢洞窟と室谷洞窟 は,特別の技術集団の工房であった可能性が高く,それが故に,北海道産の黒曜石や神津島の黒曜石がそこに運ばれてきたらしい。

 さて,問題は,何故その場所が特別の技術 集団の工房に選ばれたかということである。「縄文文化の起源を探る・小瀬が沢・室谷洞窟」(小熊博史、2007年5月、新泉 社)では,その理由として,その場所が地理的な要衝だからと言っている。私もそう思う。しかし,何故そこが地理的な要衝なのかについては,小熊博史の説明 では腑に落ちないところがある。そこで、黒曜石7不思議の七つ目の不思議として,「何 故, 小瀬が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という問題提起をしたのであるが、「何故、交通の要衝である津川に黒曜石加工の工房ができたのか?」という問題については、工房というからには、その目的が交易であることは自ずと明らかであるので、黒曜石運搬の目的、すなわち「交易と交流の問題」については追求しなかった。それを今回考えてみようという訳だ。
なお、「黒曜石七不思議」については、次のホームページを、是非、ご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/7husigi2.html



では、「交易と交流の問題」について考えてみよう。そんなに遠くの部族どうしの交流なんてものはおおよそ考えにくいので、私は、 黒曜石運搬の目的 やっぱり交易だと思うが、その場合、何と交換したかという問題を考えてみなければならない。
この問題については、考古学的な証拠はないので、頭の中で想像するしかない。黒曜石を遠路はるばる運んできて、またもとのところまで帰らなければならない。交易をして交換物を持ってもとのところまで帰るとしたら、その交換物は 軽くて持ち運び易いものでなければならない。それは何か?  そんなものを想像することができるか? 私にはおおよそ想像できない。私は、黒曜石を遠路はるばる運んできた人たちは、黒曜石とその地域の特産品と交換したのだと思う。その地域の特産品は、近隣の部族と交換できる。黒曜石を遠路はるばる運んできた人たち、それは縄文商人と言って良い人たちであるが、縄文商人は黒曜石を遠隔地まで運んできて、またもとのところまで帰っていく。その帰り道を想像してほしい。近隣から近隣と渡り歩きながら、それぞれの地域の特産品を商取引きしたのである。その渡り歩いた人達こそ商人以外の何ものでもない。間違いなく縄文商人は存在したのである。

どんな部族集落にも商人は居たと思う。そういう部族集落の中に、三内丸山遺跡のような商業集落があっても何の不思議もない。私は、 元国立民族学博物館の小山修三さんと青森県教育庁の岡田康博さんが 言うように、三内丸山は商業港であったと思う。三内丸山が商業港であるということについては、批判的な意見が少なくないが、私は、小山さんや岡田さんの見解に賛成だ。私は、縄文商人が集まる部族集落が日本列島の所々にあっても何の不思議もないように思う。

以上は第3節「縄文時代の技術と交易」の要点を紹介したものである。先のブログでは、第1節「歴史認識の重要性」の要点と第2章「第2節「黒曜石文化から縄文文化へ」の全文を紹介したが、 第1節「歴史認識の重要性」 のさらに詳しい説明、並びに第3節「縄文時代の技術と交易」と第4節「渡来人の技術移転」の全文については、次をご覧戴きたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai02.pdf










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