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2013年7月22日 (月)

邪馬台国と古代史の最新 第7章第3節

邪馬台国と古代史の最新

第7章  藤原不比等の深慮遠謀

第3節 鹿島神宮の乗っ取り

東国で、中臣氏は物部氏の勢力を乗っ取ってしまう。物部氏ルーツのこと、中臣氏の物部氏の勢力乗っ取りのことは第6章で述べたので、第6章を読み返してほしい。 物部氏の残した鹿島神宮、これは東北経営の拠点でもあるのだが、その神 社の支配権というものは霞ヶ浦湖畔の豪族である多氏が握っている。中臣氏としては、多氏を抱き込んで、何とかそれを手に入れたい。当然のことである。かく して鹿島神宮の乗っ取りはなり、しかも東北における物部氏の勢力はそのまま中臣氏に引き継がれることとなった。藤原氏発展の基礎はここにある。

さて、藤原氏の鹿島神宮乗っ取りに関連して、漢国(かんごう)神社について勉強するため、現地に赴いたことがある。それを次ぎに紹介しておきたい。藤原氏を語るには漢国神社を語らねばならない。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/kangojin.pdf

さて、最後に、藤原氏が乗っ取った鹿島神宮のある霞ヶ浦という地域は、はたしてどういう地域なのか、それを少し語ってみたい。
東北地方最初の日本人は舟を巧みに操って、まず最初に岩手県に上陸した。 命がけでやってきたと思われる。その後、縄文人は舟を巧み操って、北海道からアメリカ大陸まで渡っているようだが、最初の日本人が岩手県にやってきたのはそれと同じような冒険心からかもしれない。とにかく最初の日本人・海の民が岩手県にやってきたのだ。岩手県に最初の人々がやってきたのは、おおよそ4万年前頃を思われる。旧石器時代である。

縄文時代になると、西日本から多くの人々が東北地方にもやってくる。かの丸山三内遺跡を初めとして東北地方にも縄文遺跡が結構多く、漁労や舟運も盛んであったらしい。しかし、縄文時代から弥生時代にかけて、東北地方やこの霞ヶ浦地方の舟運がどのような状況であったのかはよくわかっていない。私は、水郷地帯のことであるからおそらく舟運が盛んであったと推測している。

霞ヶ浦周辺が歴史に登場してくるのは、大和朝廷の東北進出を契機とする。その前線基地として香取神宮に次いで鹿島神宮が作られていく。東北進出の権力者は物部氏であったが、鹿島神宮の創建についてはこの潮来地方の豪族・多氏(おおし)の力によるところが大きかったようだ。潮来地方の豪族・多氏(おおし)は大変興味ある豪族である。大生古墳群は多氏のものだ。多氏は、神武天皇の御子、神八井耳命(カンヤイミミノミコト)を祖とする氏族であると言われたりしているが、私は、神武天皇は架空の天皇と考えているので、ここでは、多氏は大和朝廷と関係の深い潮来の豪族としておきたい。大、太、於保などとも書くが、すべて「おお」と読む。多氏は大和朝廷の東北進出に重要な役割を果たしたようで、石城(いわき)の豪族は多氏の一族である。

物部氏については、雄略天皇の時代に水軍と関係のある伊勢の豪族を征討したこと、また継体天皇の時代に水軍500を率いて百済に向かったことなどが伝承されており、物部氏がわが国の水軍をその傘下におさめていたことは容易に想像がつくが、学習院大学の黛(まゆずみ)弘通教授がその点を詳しく述べている(「古代日本の豪族」、エコールド・ロイヤル古代日本を考える第9巻、学生社)。すなわち、『「旧事本紀」の中の「天神本紀」には、ニギハヤヒが降臨するときにつき従った神々とか、そのたもろもろの従者のことが詳しく出ているが、それによると、つきしたがった神に海部族(あまぞく)である尾張の豪族がいるし、つき従った従者に、船長と舵取りと舟子がそっているということらしい。物部氏が航海民、海人族と関係があったのは間違いがない。物部氏系統の国造を詳しく調べると、物部氏は瀬戸内海を制覇していたことが推定される。』・・・と。
中臣氏は、 鹿島神宮を物部氏の勢力を乗っ取ってしまう。先に述べた通りである。その狙いは何か?
東北地方は、古代から人口の集積地であり、縄文時代は最も文化水準の高い中心地であった。しかも鉱物資源の豊かなところであった。中臣氏が狙わない訳がない。奥羽山脈には日本で唯一の黒鉱鉱脈が走っており、鉄、金、銅などの鉱物資源が豊富にあったのである。7世紀中頃からの大和朝廷の東北進出は、鉱物資源の支配と技術をもった製鉄工人の獲得のために行われたが、私は、鹿島神宮がなければそれもなし得なかったのだと思う。鹿島神宮の歴史上果たした役割は実に大きい。
香取神宮は鹿島神宮とはちょっと趣をことにするが、大和朝廷の東北進出という観点から俯瞰してみると、二つの神宮は一対のものであって切り離して考えることはできない。実はこの他に、大和朝廷の東北進出という観点から見逃すことのできない神社がもう一つある。それが息栖神社である。

息栖(いきす)神社は、岐神(くなどのかみ)を主神とし、住吉三神・天鳥船神を相殿として祭られている。古くから国史にも見え鹿島神宮と香取神宮とともに信仰のあつい神社である。岐神は除厄招福の神であり、住吉三神は海上守護に、天鳥船神は交通守護の神として御神徳が顕著で、神前に祈念する者にその限りない御恩頼を垂れされて、御守護くださるものである。社前に、日本三霊水の一つと言われる忍塩井(おしおい)がある。俗に女瓶と男瓶とよばれる二つの井戸から清水の湧き出ている。男瓶は銚子の形で女瓶は土器に似て一説には神代のものと云うが、常に水底に沈んでおり、天気がよく水澄む日でなければ見えない。 神功皇后の頃というから200年頃ということになるが、香取神宮や鹿島神宮が創建されるずっと前、あたり一面海水におおわれていた頃、真水淡水の水脈が発見されていて、太平洋における重要な港としての役割を果たしてきたようである。

霞ヶ浦地方は、息栖神社と香取神宮と鹿島神宮を擁し、古来、舟運の拠点地域として大きな役割を果たすと同時に、それが故ではあるが、大和朝廷の東北進出の前線基地としての役割を果たしてきた。

以上第3節の要点を述べたが、第7章の全体は次の通りである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai07.pdf

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