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2013年7月31日 (水)

最終章第2節(3)

邪馬台国と古代史の最新

第10章 邪馬台国は近江だ!
第2節 魏志倭人伝の比定地
3、狗奴国・・・尾張という国について

魏志倭人伝の書きぶりから見て、狗奴国が倭国の一国であることについては特に説明はいらないと思う。問題は、狗奴国の比定地ははたしてどこか、ということである。それを解く大事な視点は、二つある。一つは、倭国の中で、邪馬台国が脅威に感じるほどの巨大な軍事大国を倭国の東方面に探すことである。あと二つ目は、台与と前ヤマトとの関係についての認識だ。私は、台与を擁立した陰の権力者が大和にいて、邪馬台国と狗奴国との和平を実現した実力者がいたと考えているのだが、その実力者ははたして誰か、ということを考えねばならない。私のそういう考えと台与と前ヤマトとの関係については、のちほど縷々説明をしたいと思うが、まずは邪馬台国が脅威に感じるほどの巨大な軍事大国を邪馬台国の東方面に探すこととしよう。

最初の論点としては、魏志倭人伝の「 其南有22狗奴國」の解釈である。南というのは何度も申し上げているように、陳寿は李氏朝鮮の地図と同じような認識で魏志倭人伝を書いているので、実際の日本地図とは90度ひん曲がっている。実際の方角は、反時計回りに90度ねじって考えねばならない。それが邪馬台国畿内説の基本姿勢であるが、私は、畿内説の立場に立っているので、倭人伝記載の方向を反時計回りに90度ねじって読み替える。その点はご了承願いたい。南の方向に狗奴国がある。問題はどこから見て南なのかということである。すなわち「其」の解釈である。陳寿は、「九州から遠隔地の22カ国は、邪馬台国の周辺の国々だが、それらは九州から余りにも遠いので詳しく記述することができない。邪馬台国の周辺の他の国々については、余りにも遠いので詳しく記述することができません。」と言っている。そこで国々の名称のみを記述すると言いながら、21カ国を連記し、そして、22カ国のいちばん最後に狗奴国はその南にあると言っている。したがって、「其」の解釈としては、21カ国全体を指すものと私は考える。21カ国全体の中心は邪馬台国であるから、「 其南有22狗奴國」の解釈としては、「邪馬台国の東に狗奴国がある」という意味である。邪馬台国を大和と考えるなら、その東は三重県になるが、三重県には巨大な国を想像させるような弥生遺跡はない。私は、邪馬台国近江説であるので、近江の東は尾張である。したがって、以下において、はたして尾張が巨大な国なのかどうかを考察する。その上で、最後に、台与のこと、前ヤマトのこと、そして台与と前ヤマトとの関係について考察することにしたい。

まずは、尾張の弥生遺跡について説明したい。

日本の歴史というものは、おおよそ革命というか根こそぎ文化が入れ替わるというような大変化は起こらない、そういう歴史であって、私は日本の歴史の連続性というものを重視している。そこで尾張というときに真っ先に思い出すのが、私は永いこと名古屋に住んでいたので、「七里の渡し」である。「七里の渡し」は浮世絵などにもたくさん描かれているが、お伊勢参りの人たちが舟で渡った東海道唯一の「海の道」(海の官道)である。そして、引き続き連想するのが古代の「海上の道」であり、柳田国男の「海上の道」や旧石器時代の「海の道」を思い出す。日本はやはり海洋国家だなあとしみじみ思う。その流れの中で、私は、尾張という古代の国を理解しなければならないと思う。私は、かって、物部氏が航海民、海人族と関係があったのは間違いがないのではないか、との観点から、尾張にも触れながら、物部氏のことを書いたことがある。それをここに紹介してきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/monobe1.html

香取神宮や鹿島神宮もそうだが、熱田神宮も海人族の拠点であって、それぞれ物部氏と関係が深いのかもしれない。さっそく、熱田神宮付近の古代遺跡を調べることとしたい。
現在,愛知県南部に海部(あま)郡という地名が残っているが、伊勢湾沿岸の「海人」は単に漁業を主労働としていた一族ではなく,木曽川,長良川,揖斐川の 木曽三川を利用してそれぞれの上流地域と交流するための技能(造船や操船)を持っていたとされる。また,当時陸路で木曽三川を渡るのは川の増水時期は困難 なことだったろうから,伊勢湾を船で渡るほうが楽と考えられる。尾張地域と伊勢地域は船でも結ばれていただろう。尾張氏は「海人」一族と深く関わり,この 地域に強大な力を持った。大海人皇子(後の天武天皇)の乳母は,尾張郡海部郷出身で,その首長である大海氏の娘であった。 古代の海・伊勢湾岸は現在の熱田区までであり,断夫山古墳は海岸線近くに造られていた。

名古屋市北区楠町に味鋺(あじま)神社があるが、味鋺(あじま)神社は物部氏との関係が深い。味鋺(あじま)は「物部氏の可美真手命(うましまでのみこと)の名にちなんでいる。宇摩志摩治命 (うましまじのみこと) とも表記する。可美真手命は饒速日命の御子で、物部氏の祖神とされている。神武 の御代、宇麻志麻治命は物部一族を率いて尾張国に居住したようだ。

弥生時代には、熱田神宮の付近はほとんどが海だったようだ。熱田神宮は熱田台地の南端に位置し、その北端には名古屋城がある。この図は象に似ておりちょうど熱田台地は象の鼻に当たる。象の口当たりに鶴舞というところがあるが、私はそこに住んだことがあるが、近くに大きな八幡山古墳という古墳があった。

さて、尾張の集落遺跡であるが、名古屋市西区と清須市にまたがる朝日遺跡(あさひいせき)という凄い集落遺跡が、近年、道路工事の関係で見つかった。これは、弥生時代の東海地方最大級の環濠集落遺跡で、範囲は東西1.4キロメートル、南北0.8キロメートル、推定面積80万平方メートルにも及ぶ巨大集落である。

この最終章は、私が「邪馬台国は近江だ!」と考える根拠を書いたものです。もちろん、今ままで縷々述べてきた第1章から第9章までの内容が最終章の背景としてある訳ですが、この本の最終結論はこの最終章です。もっとも大事な章ですので、第1節から第3節までその内容ごとに分類しながら、紹介していきたいと思います。しかし、一気に最終章全体を読みたい方のために、章全体をアップしておきます。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai10.pdf

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