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2013年7月17日 (水)

邪馬台国と古代史の最新 第5章第3節

邪馬台国と古代史の最新

 

第5章 葛城王国

 

第3節 王朝交代説

 

王朝交替説(おうちょうこうたいせつ)は、日本の古墳時代に皇統の断続があり、複数の王朝の交替があったとする学説である。私は、記紀は不比等による創作物語であり、信用して良い部分もあるし、信用できない部分もあると考えている。そこが古代史を考える場合の難しい所で、風土を含む地理学的な考察の下、遺跡にもとづく考古学的な裏打ちを行いながら、どのような歴史認識を持つかが問われるということであろう。その際には、歴史の連続性とか歴史的必然性というものが十分認識されなければならない。葛城王国については、丹波王国や近江王国との関係を無視するわけにはいかないし、そこに歴史の連続性というものを考えざるを得ないのではないか。第6章で詳しく述べるように、私は、いわゆる大和朝廷は応神天皇から始まると考えているが、それはそこに歴史的必然性を感じているからである。私は神武天皇や崇神天皇は実在しないと考えているのであるが、そうは考えてない学者が多いようであるので、まず王朝交代説について、それがどのようなものかを説明しておきたい。

 

崇神王朝は、大和の三輪地 方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され三輪王朝ともよばれている。私は、三輪王朝というのは適当でないと考えるが、三輪地方に王と呼ぶのにふさわしい権力者がいたことは間違いない。古墳時代の前期(3世紀の中葉から4世紀の初期)に奈良盆地の東南部の三輪山山麓に大和・柳本古墳群が展開し、渋谷向山古墳(景行陵に比定)、箸墓古墳(卑弥呼の墓と推測する研究者もいる)、行燈山古墳(崇神陵に比定)、メスリ塚、西殿塚古墳(手 白香皇女墓と比定)などの墳丘長が300から200メートルある大古墳が点在し、この地方(現桜井市や天理市)に王権があったことがわかる。私の考えでは、この王権というのは大王すなわち天皇の政権ではなく、王と呼ぶのにふさわしい豪族の一地方の政権である。この王権の成立年代は3世紀中葉か末ないし4世紀前半と推測され ている。それは古墳時代前期に当たり、形式化された巨大古墳が築造された。王権の性格は、「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」卑弥呼を女王とする邪馬台国の 呪術的政権ではなく、宗教的性格は残しながらもより権力的な政権であったと考えられている。

 

河内王朝という言い方があるが、これについても注意を要する。大和朝廷すなわち応神王朝の延長線上に、宋書に出てくるいわゆる倭の五王、すなわち讃、珍、済、興、武の時代がくるのだが、これらの人物が記紀におけるどの天皇に該当するのか、まだ定説はない。『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」履中天皇、「珍」反正天皇、「済」允恭天皇、「興」安康天皇、「武」雄略天皇の説が有力である。このうち「済」、「興」、「武」については研究者間でほぼ一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため未確定である。他の有力な説として、「讃」が仁徳天皇で「珍」を反正天皇とする説や、「讃」は応神天皇で「珍」を仁徳天皇とする説などがある。「武」は、鉄剣・鉄刀銘文(稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王と江田船山古墳の鉄剣の銘文獲□□□鹵大王)の王名が雄略天皇に比定され、和風諡号(『日本書紀』大泊瀬幼武命、『古事記』大長谷若建命・大長谷王)とも共通する実名の一部「タケル」に当てた漢字であることが明らかであるとする説から、他の王もそうであるとして、「讃」を応神天皇の実名ホムタワケの「ホム」から、「珍」を反正天皇の実名ミヅハワケの「ミヅ」から、「済」を允恭天皇の実名ヲアサヅマワクゴノスクネの「ツ」から、「興」を安康天皇の実名アナホの「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ている、という説もある。しかしながらいずれも決め手となるようなものはなく、倭の五王の正体については今のところ不確定である。

 

この河内王朝説を批判する論者に門脇禎二がいる。門脇は河内平野の開発は新王朝の樹立などではなく、大和政権の河内地方への進出であったとする。私は、門脇説に賛成であり、応神天皇を祖とする初期の大和政権が河内平野の開発に乗り出し、天皇の威力を百済や新羅の使者や地方豪族に誇示するために、一連の大古墳を建造したものと考えている。

いわゆる河内王朝説としては、直木孝次郎、岡田精司による、瀬戸内海の制海権を握って勢力を強大化させた河内の勢力が初期大和政権と対立し打倒したとする説や、上田正昭による三輪王朝(崇神王朝)が滅んで河内王朝(応神王朝)に受け継がれたとする説と、水野祐、井上光貞の九州の勢力が応神天皇または仁徳天皇の時代に征服者として畿内に侵攻したとする説とがある。それらいずれも私の考えとは異なるのである。

 

王朝交代説の範疇に継体王朝説というのがあるので、ついでにこの点についても触れておきたい。継体王朝説は、継体天皇による王朝こそ現天皇家に続く王朝であるという説である。しかし、継体天皇の即位の事情については、いくつかの見解がある。継体天皇は応神天皇5代の末裔とされているが、これが事実かどうかについて、水野祐は継体天皇は近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したとした。また、即位後もすぐには大和の地にはいらず、北河内や南山城などの地域を転々とし、即位20年目に大和にはいったことから、大和には継体天皇の即位を認めない勢力があって戦闘状態にあったと考える説(直木孝次郎説)や、継体天皇はその当時認められていた女系の天皇、すなわち近江の息長氏は大王家に妃を何度となく入れており継体天皇も息長氏系統の王位継承資格者であって、皇位簒奪のような王朝交替はなかったと考える説(平野邦雄説)がある。なお、継体天皇が事実応神天皇の5代の末裔であったとしても、これは血縁が非常に薄いため、王朝交替説とは関わりなく継体天皇をもって皇統に変更があったとみなす学者は多い。しかしながら、継体天皇の即位に当たっては前政権の支配機構をそっくりそのまま受け継いでいること、また血統の点でも前の大王家の皇女(手白香皇女)を妻として入り婿の形で皇位を継承していることなどから、私は、これを新王朝と呼ぶのは適当でなく、皇統に変更はなかったと考えている。

 

葛城王朝説 は、鳥越憲三郎が唱えた説で、神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説である。この葛城王朝説は、神武天皇と欠史八代の王朝の所

在地を葛城の地に比定する。この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族とされる第10代崇神天皇に踏襲されたとされる。河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。記紀によれば、仁徳天皇は 葛城襲津彦(そつひこ)の娘盤之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇を産んでいる。こうした『記紀』などの記述から、葛城氏が河内王朝と密接な関係があったと考えるのである。

私は、すでに述べたように、王朝の交代などというものはなかったと考えている。実在の天皇は、応神天皇からであり、神武天皇はもちろん欠史八代の天皇ならびに崇神天皇は、架空の天皇であり、実際は、葛城王のように前ヤマトの「王」ではあるけれど、まだ天皇(大王)と呼ぶのはふさわしくないと、私は思う。

私が崇神天皇を架空の天皇と呼ぶのは、崇神天皇の没年について、記紀にもとづき258年没説を採った場合でも、崇神天皇の治世は、邪馬台国の時代と重なることになるからである。何度も言うようだが、私は大和朝廷は応神天皇から始まると考えている。卑弥呼も台与もシャーマンであり、実際の政治は、男性の側近が行っていたのであり、その実力者が陰の「王」であった。私は、邪馬台国および前ヤマトの陰の「王」は物部氏であったと考えている。もし葛城氏を「王」と呼ぶなら、前ヤマトには二人の「王」がいたことになる。物部氏と葛城氏とは仲が良かったり悪かったり、いろいろであったようで、実力者というのは物部氏であったときもあったが、葛城氏が優勢の時期が多かったのかもしれない。その辺りのことは判らないので、前ヤマトの「王」に関しては葛城に物部氏に匹敵する或いは物部氏を超える実力者がいたと考え、一応、葛城地方に王国があったとしておきたい。畿内では、丹後王国、近江王国、三輪王国、葛城王国が卓越しており、これらを統一する歴史的必然性とは何か? この点については第6章で述べる。

 

 

第1節「葛城という所」、第2節「葛城山麓の遺跡」、第4節「葛城氏の衰退」も含めた第1章の全体は次の通りである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai05.pdf

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