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2013年7月25日 (木)

邪馬台国と古代史の最新 第8章

邪馬台国と古代史の最新

第8章 歴史的直観力

歴史学のみならずあらゆる学問及びその他本格的な登山などで、その時々において難しい
判断を必要とするものは、直観力がないと卓越した判断はできない。そのことは、今西錦
司の言動をつぶさに見ればよく解る。
歴史的直観力というものは、歴史学だけでなく、その他歴史に関連する民俗学などの知識
を持って、現地で地霊の声を聞かなければならない。その地域の風土というものを感じ取
ることが大事なのである。私は,歴史的文献や考古学的知見によって古代を知ることが基
本であるとしても、それだけでは不十分で、現在そこにあるものから古代を推察すること
が大事なのである。それは、ハイデガーの言う過在ということである。過ぎ去ったかに見
えても、その名残りみたいなものが現在に在る。それが過在である。古代を知るには、そ
のことも大事である。その事を実際にやったのが民俗学者であり地名学者でもある谷川健
一である。谷川健一の最後の仕事が「四天王寺の鷹」である。彼は、歴史的直観力を働か
せながら、「物部氏と秦氏との密接な関係」を明らかにした。この章では、まず最初にそ
れを紹介して、次に、諏訪大社に焦点を当てて、「物部氏と前イズモとの密接な関係」に
ついて、私の論考を進めたい。タイトルは、「諏訪大社の柱とソソウ神」である。

「四天王寺の鷹」という本は、邪馬台国が大和なのか近江なのかを考える場合の必読書である。また、大和朝廷と東北地方との関係を考える場合の必読書でもある。この本を読まずして日本の歴史を語ることはできないと言ってはちょっと言い過ぎかもしれないが、まあそういう側面もあって、この本の内容をきっちり理解することは日本の歴史を語る上できわめて大事なことである。ただし、この本を表面的に読んだだけではその心髄を知ることはできない。そこで、私は、この本の心髄部分が一般の人にも理解されるよう、その解説を行う。
谷川健一は、この本で、「聖徳太子が起請した四天王寺に、なぜ物部守屋が祀られているのか」という問題意識のもと、四天王寺に秘められた物部氏と秦氏の謎を綿密なフィールド調査と鋭い分析を駆使して追求している。その内容は、谷川民俗学の集大成とも言うべき彼でしかなし得ない内容のものであって、そのことに驚きを感ぜざるを得ない。私は、彼が良弁のことを相当力を入れて書いていることに、まず吃驚した。

良弁と物部氏や秦氏とを結びつけるもの、そのキーワードは「鷹」である。この本の題名は「四天王寺の鷹」となっているが、そもそも「鷹」とは何の象徴なのか? 「四天王寺の鷹」、「英彦山の鷹」、「香春の鷹」、「鷹と宇佐」、「鷹と鉱山」、「鷹巣山と鉱山」と言葉が出てくるが、谷川健一は、「鷹」は鉱山や鍛冶(かじ)の象徴であって、物部氏と秦氏を繋ぐものは「鷹」、すなわち鉱山や鍛冶である。しかし、何故「鷹」が鉱山や鍛冶の象徴なのか? 金勝族(こんぜぞく)というのは、むかし、朝鮮半島からの渡来した一族で、銅の採掘や青銅の細工を生業としていた技術集団のことであるが、良弁は 金勝族(こんぜぞく)を統率していたらしい。谷川健一はそう考えている。
私は、今まで、良弁のことをいろいろと勉強してきたが、このたび谷川健一の良弁論を読んで目から鱗が落ちた思いである。

谷川健一は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だとほのめかしている。彼は断定はしていないのだが、私は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だと断定したい。それを書いたのが第2節である。谷川健一の「四天王寺の鷹」と私の「諏訪大社の柱とソソウ神」は、対になっていて、私としては、是非、「諏訪大社の柱とソソウ神」もじっくり読んでいただきたい。
谷川健一は、また、「物部一族の残党と名乗る人びとが東北北端の地に、かっての先祖の栄光を忘れずに生きていた。」と述べているが、彼はそれをあまり説明していない。残念である。

谷川健一は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だとほのめかしている。彼は断定はしていないのだが、私は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だと断定したい。それを書いたのがこの第2節である。まず諏訪大社の謎に迫っていきたい。

諏訪大社の御柱祭りは、歴史的のも極めて重要である。この地方では、小規模ながらもいたるところで同じような祭りが行われている。私の直感では、この諏訪地方の柱をおっ立てる祭りは、歴史がまことに古く、多分、旧石器時代まで遡るものと思われる。旧石器時代の柱の祭りとは、石棒をおっ立てる祭りだ。このような信仰は、全国各地で見られるが、特に、注目すべきは,秦一族と関係の深い人たちの信仰する宿神である。宿神については、哲学者の中沢新一の研究が卓越していて、私は,それにもとづいて現現地に赴きながらいろいろ勉強した事がある。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo02.html

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo03.html

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo04.html

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/enasinko.html

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/enayana.html

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/hujido.html



中沢新一は「ミシャグチは日本の民俗学にとって、いまもなおその草創期と少しも変わることなく、謎にみちたロゼッタ・ストーンであり続けている。」と言っているが、ロゼット・ストーンは、1799年にナポレオン率いるフランス軍によって、エジプトのロゼッ タ村で発見された石碑である。その石碑には、上段に象形文字、中段に古代エジプトの民衆文字、下段に古代ギリ シャ語の3つの言葉で同じ内容が刻まれている。以後、この石碑をもとに古代エジプトの象形文字に関する研究が進められはいるが、今なお謎に満ちている。そこで、中沢新一は「謎にみちたロゼット・ストーン」という言い方をしているのだが、ミシャグチも謎に満ちている。諏訪を中心としたミシャグチ信仰は、石棒信仰と言っていいものだが、実は、女陰(ホト)で表わされることこともある。諏訪大社の縁起を書いた諏方大明神画詞(えことば)というのがあり、現在、絵そのものは行方不明だが、言葉だけは残っている。それによると、本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、ソソウ神などの諏訪地方の土着の神々であるらしい。ソソウ神は、私のいう「ホト神様」である。縄文時代の住居には、炉とその隅に石棒が立てかけられている事例が少なくない。そういうところでは、家のなかで毎日のように、天の神や地の神への「祈り」が捧げられたのである。縄文住居の炉は、女性の「ホト」でもあり、女性の象徴的聖性を表わしていると考えている。地球の母の象徴的聖性、地の神の象徴的聖性と言っても良い。このことについては、次に紹介する私のホームーページをご覧頂きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tanaba04.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tanaba07.html

小林達雄は、その著書「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)の中で、「火を焚くこと、火を燃やし続けること、火を 消さずに守り抜くこと、とにかく炉の火それ自体にこそ目的があったのではないか」と述べ、火の象徴的聖性を指摘している。 火の象徴的聖性、それが女陰(ソソ、ホト)で表現されても何の不思議もない。ミシャグチ神は「ホト神さま」である。谷川健一の「四天王寺の鷹」でも明らかにしているように、物部氏や秦氏の率いる技術集団のなかに鉱山師や製鉄技術者がいることは間違いないが、この技術集団は「ホト神様」を信仰していた。秩父の宝登山は「ホト山」であり、製鉄の関係の技術集団と関係の深い山である。宝登山の事については、私の電子書籍「女性礼賛」の第5章「ホトの不思議な力・・・聖なるかな生殖」の第5節に詳しく書いたので、是非、ご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/onna05.pdf

なお、そこにも書いたが、諏訪の神はもともと風よけの神として信仰されていた。諏訪大社には薙鎌と呼ばれる風封じの神器がある。これは五行説の「金克木(きんこくもく)」に基づいた思想で あるといわれている。火克金(火は金を克する)、金克木(金は木を克する)、木克土(木は土を克する)、土克水(土は水を克する)、水克火(水は火を克する)というが、克(こく)するの意味は、制御するという意味である。つまり金気である鉄鎌を、木気である木に打ち込むということは、間接的に木気である風を封じこめようという呪法なのだ。 南信濃村でも、九月一日には各家で草刈り鎌を竿の竹の棒に縛り付け、軒先につるす風習があったという。法隆寺五重塔の九輪の下に刺されている鎌は諏訪大社で製鉄された鎌が起源であり、鎌が風を切るという風除けのまじないである。

ここで皆さんに申し上げたい大事な事は、諏訪大社が古代製鉄と関係があるという事もさることながら、諏訪で作られた鉄製品・鎌が法隆寺の護りに使われているという事だ。何故、法隆寺と諏訪が結びついているのか? その疑問を解く鍵は、秦氏の存在にある。梅原猛の「隠された十字架」で明らかにされているように、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺であり、谷川健一の「四天王寺の鷹」で明らかにされているように、法隆寺は秦氏がその建設に携わった。そして、秦氏は、物部氏を引き継いで、諏訪の製鉄技術者集団を統括していた。これらの事を考えると、法隆寺と諏訪が深く結びついていたと考えても何の不思議もない。当然だろう。


なお、この第8章は、非常な情熱を持って書いた私の苦心作であり、是非、次を読んでいただければたいへん幸甚です。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai08.pdf


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