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2013年7月19日 (金)

邪馬台国と古代史の最新 第6章第2節

邪馬台国と古代史の最新

第6章 応神天皇と秦氏

第2節 応神天皇の大和入り

さて、応神天皇のことだが、応神天皇については、実在性が濃厚な最古の天皇とも言われている。仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説などが出されているが、その年代は、『古事記』の干支崩年に従えば、4世紀後半である。

『記・紀』に記された系譜記事からすると、応神天皇は当時の王統の有力者を合成して作られたものと考えるのが妥当であるとする説もある。この実在の不確かさもあり実像をめぐっては諸説が出されてきた。応神天皇の和風諡号である「ホムダ」は飾りの多い8代以前の天皇と著しく違っている事から実在とみなす説、邪馬台国東遷説にまつわり皇室の先祖として祭られている神(宇佐八幡)とする説、河内王朝の始祖と見なす説などである。また、日本国外の史料との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の讃に比定する説、ほかに仁徳天皇や履中天皇を比定する説もある。「広開土王碑」に見える倭国の朝鮮進出を指揮した可能性も指摘されている。

井上光貞は確実に実在が確かめられる最初の天皇としているが、私は、井上光貞説に賛成だ。宇佐神宮や秦氏との関係などから、史実だと思われるものが多いからだ。また、私は、上述のように、物部氏のもともとの出身地を大野川の上流と考えており、物部氏は瀬戸内海を通じて邪馬台国の時代から豊後地方とは深く結びついていたと考えている。応神天皇の出身地を私は筑後川流域と見ているので、秦氏と物部氏が応神天皇を擁立したとしても何の不思議もない。私の考えでは、秦氏が既に邪馬台国の時代から大和に根を張っていた物部氏に働きかけて、応神天皇を擁立したのである。

私の歴史認識は以上のとおりであるが、ここでは紙枚の関係上そのことを語る余裕がない。したがって、ここではその点を不問にして、ただ単に応神天皇と秦氏との関係に焦点を絞って、私の考えを述べることとしたい。

弓月君が率いる秦一族が 加羅(から) から大挙大和にやってきたのは応神天皇の時代である。しかし、実は、応神天皇が産まれる以前から、秦氏は 加羅(から) から大和にやってきていたらしい。加羅(から)は、百済と新羅に挟まれるようにして朝鮮半島の南端にある小国だが、伽耶(かや)とも呼ばれたりしている。加羅(から)と呼ばれる以前
は、弁韓と呼ばれていた。 加羅は、弁韓ができる前の縄文時代から倭国の人々がいたと
ころで、縄文土器、糸魚川の翡翠、九州腰岳産の黒曜石などが発見されている。したがって、加羅(から)は朝鮮といえば朝鮮だし、倭国といえば倭国であるという、まあ両方の国の人びとが住んでいた特殊な地域であったのである。だから、私は、加羅は加羅だと考えた方が良いと思う。無理に朝鮮だとか倭国だとか決めつけない方が良いと思う。中世の大阪は境のように、むしろ商人による自治組織の発達した特殊な地域と考えた方が良いのかもしれない。そこでは、私のいう大商人が活躍していた。加羅地域では、ヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏並びに在地豪族がともに協力し合って、当地で統治権を有していたことが学者の間でも有力視されているが、私は、加羅地域は、大商人による自治組織の発達した特殊な地域であったと考える次第である。その加羅に、秦一族がどのように定着していたのかは、明確な説明はできないが、私は、秦氏の始祖・功満王も加羅に定着し、リーダー的存在として活躍していたと想像している。

邪馬台国の時代、倭国は、邪馬台国を中心に政治的に安定していたが、その後、倭国は、良きリーダーに恵まれなかったようである。加羅、これは九州北部と密接な関係を持った朝鮮半島南端のもともと交易を中心として栄えた地域であったあったが、この加羅の交易の自由とこの小国の自治を守るために、倭国の良きリーダーが待望されていたのである。そこで、秦氏の始祖・功満王の活躍が始まる。大商人の働きかけがあったかもしれない。秦氏の始祖・功満王の憧れの地は、大和であった。そこで大和の若きリーダーの発掘に動き、筑後川流域の「ホムダワケ」を見いだすのである。そして大和に出かけて、物部氏への説得工作に努力する。そして、説得に成功。秦氏の始祖・功満王は、物部氏の全面的な協力を得て、応神天皇の擁立に全精力を傾けるのである。応神天皇誕生の立役者は秦氏の始祖・功満王である。

以上が私の想像である。想像だから明白な根拠がある訳ではないが、そうとでも考えないと、応神天皇が群雄割拠する列島をはるばる九州から大和に東遷してきた事情を説明できない。まあ、私の想像は一つの仮説だが、応神天皇東遷のいろんな事柄が矛盾なく説明できるように思われる。応神天皇東遷については、記紀は藤原不比等の深慮遠謀による創作であるので、これにもとづいて考えるわけにはいかない。では、応神天皇東遷の動機は何か? 特に、応神天皇東遷を支えた人たちの動機は何か? また、東遷にあたってこれという大きな戦いがなかったのは何故か? 私はこれらの疑問に答えたつもりである。

以上第2節の要点を述べたが、第2節の詳しい説明ならびに第1節「 物部氏の発祥と行く末」も含めた第6章全体は次の通りである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai06.pdf

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