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2013年7月 5日 (金)

邪馬台国と古代の最新第3章

邪馬台国と古代史の最新

第3章 丹波王国

ガラス釧(くしろ)が、平成10年9月に、与謝野町岩滝の阿蘇海と天橋立を見下ろす高台に作られた弥生時代後期(西暦200年頃)の墳墓(大風呂南1号墳)から出土した。鮮やかなコバルトブルーのガラスの腕輪が完全な形で出土したのは国内で初めてで、今では国の重要文化財になっている。
 奈良国立文化財研究所の成分分析によれば、中国産のカリガラス製である可能性が高いことが判った。その他にも銅釧13・ガラス勾玉6・管玉363・ 鉄剣15・鉄鏃など当時の貴重品が多数埋葬されていた。当地方には、古代から日本海ルートで大陸と交流する強大な力を持った集団が存在していたのである。

また、平成11年には、和歌山県御坊市の堅田遺跡から、弥生前期後半の青銅器を作るための日本最古の鋳型が見つかった。これは九州で発見されたものより古い。したがって、渡来文化がいったん北部九州や出雲地方にもたらされ、しばらく経って近畿地方に伝わったという従来の考えを完全に覆すもので、渡来の波は西日本一帯に、一気に押し寄せたと考えざるを得ない。その中心的な地域として丹後が今浮かび上がってきている。
丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から鉄器生産に伴う鍛冶滓(かじさい)が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知られている。このため丹後が古代の鉄生産の一つの拠点となっていたのではないかと考えられている。弥生時代鉄製品の出土例は、平成14年現在、丹後からは330点を数えるが、同時期の大和では13点にしかならない。丹後の古代製鉄は大規模で、一貫生産体制のコンビナートであった。
さらに、平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓が発掘された。紀元前1世紀ごろのものである。30m×20mほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさである。墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかった。しかも、墓に接するように環濠集落があるようだが、これについては今後の調査が期待される。この墓は、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代で、墓の大きさも吉野ヶ里よりわずかに小さいが、
吉野ヶ里の場合は、墳丘墓には十数体の遺体が埋葬されているのに対して、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓である。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王の墓」と考えられる。
 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられているが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけだ。


以上は第3章のほんのさわりを述べたものであるが、第3章の全体については是非次をご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai03.pdf


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