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2013年6月30日 (日)

邪馬台国と古代史の最新 第1章

邪馬台国と古代史の最新

第1章 大和盆地の地理的条件

大和朝廷は何故奈良にできたのか?弥生時代ないし古墳時代に何故京都にそういう権力機構ができなかったのか?

この問題を解くには、旧石器時代、縄文時代、弥生時代の連続性を考慮して、旧石器時代から考古学的な考察をすることが必要である。歴史的な連続性というものを重視しなければならないのである。
では、考古学的な考察をする場合に、どういう視点が必要か?考古学的な考察をする場合の視点、それは、人びとが何故そこに集まってきたかということである。それには二つの要件がある。一つは交通、二つ目は交易品である。交通条件についてはのちほど述べるとして、今ここでは、まず交易品について述べる。旧石器時代と縄文時代を通じて、京都に無くて奈良にあった交易品とは何か? それは、石器である。奈良特産の石器は、言わずと知れた二上山の石器である。すなわち、二上山特産のサヌカイトである。京都にはそういう石器の一大産地はない。奈良には、それがあった。旧石器時代と縄文時代を通じて、いろんなものを加工する道具は、石器である。鉄の生産は、縄文製鉄があったとはいえ、本格的に始まったのは弥生時代である。したがって、縄文時代の道具は、石器であったといって良い。石器は、東日本は黒曜石、西日本はサヌカイトである。旧石器時代と縄文時代を通じて、サヌカイトの一大産地のひとつが二上山、すなわち奈良である。したがって、縄文時代に人びとが集まってきたのは、京都ではなく奈良であった。

縄文時代後期、東海地方から北海道まで東日本全域に大流行したのは「ベンケイガイ」製の貝輪である。愛知・千葉・秋田・北海道などには、貝輪づくりを専門にしていたムラも現れるようだ。こうした貝輪づくりのムラ近くには、ベンケイガイを多量に打ち上げる海岸が今でもみられるという。このことについては次のホームページを参照されたい。
http://www.city.ichihara.chiba.jp/~maibun/sokuhou/sokuhou58.htm

奈良には縄文時代の貴重な遺跡・橿原遺跡がある。 橿原遺跡からは東北地方を主体とした150点にも及ぶ遠隔地の土器が出土しており、これらの出土品は近畿地方においては他に例を見ない量といえる。 西日本一帯に共通する土器文化圏にあった橿原遺跡から、特に多くの東北地方の土器が出土すること及び土偶のなかに東日本的な要素が 見出されることは、大和盆地と東日本との交易が縄文時代から盛んであったことを意味している。もちろん、橿原式文様を有する土器が東日本へ波及している事例も多く見られるという。このような東日本をはじめとする遠隔地との交流を示す出土品は、土器や土製品にととどまらず、タイ、ボラ、スズキ、フグ、クジラなどの海産の食料資源や、ベンケイガイ製貝輪などの装飾奢侈品にまで及んでいる。

南武志、武内章記、高橋和也、今津節生らの研究チーム(近畿大理工、国立環境研、理研、九州国博)によって、「遺跡出土朱の産地推定のための同位体分析」という画期的な研究が日本学術振興会のプロジェクトとして2002年度に行われた。

彼らの画期的な研究で弥生時代後期より古墳時代における遺跡から出土する水銀朱の中に国産品があることが判明した。問題は、国内のどこでいつ頃生産されたか、そしてそれらの水銀朱が運び出された地域はどこか、ということである。私は、伊勢水銀(三重県丹生鉱山)と大和水銀(大和水銀鉱山)と阿波水銀(徳島県水井鉱山)の三カ所で水銀朱(辰砂)が採掘され、それらは大和から運ばれていったと考えている。


以上第1章の要点であるが、詳しくは次をご覧いただきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai01.pdf

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