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2013年5月16日 (木)

男のおばさん

電子書籍「書評・日本の文脈」http://honto.jp/ebook/pd_25249964.html

第7章 男のおばさん

 この「日本の文脈」という本の中で、内田樹は、「男のおばさん」が必要だと言っている。彼は次のように言っている。すなわち、

『「日本辺境論」(内田樹、2009年11月、新潮社)で、日本人の国民特性を形成しているのは日本語という言語の特性だろうということを書きました。日本語というのは世界にもまれなハイブリッド言語で、漢字という外来語の表意文字と、ひらがな、カタカナという土着の音声を表す表音文字が組み合わさってできています。外来の漢字を「真名(まな)」といい、これが正当的な言語で、土着語は「仮名(かな)」で一段低く、暫定的な地位しか与えられていない。この「外来が上で、土着が下」というのは日本の文化構造の全体を貫く基本的なスキームじゃないかと僕は思っているんです。
 日本の場合、哲学者が哲学用語で哲学をしても、一般市民には何を言っているのか、意味がぜんぜんわからない。僕たちはそれが当然だと思っている。でも、欧米では哲学者が使う哲学の用語の多くは生活言語を流用したものです。アカデミックな言語と日常の生活言語の違いは言語体系の違いではなくて、同じ言語の層の違いとして把握されている。哲学が判るか判らないの差は哲学用語の意味を知っているかどうかじゃなくて、ふだん使っているふつうの言葉の意味をどこまで深く理解しているか、どこまでの多義性に堪えられるかで決まってくる。だから、アカデミックな哲学書を「土着の言語」に翻訳する必要なんかないし、それを職業にしている人もいない。
 でも日本語の場合、哲学の話を哲学の用語だけで書いていたら、ふつうの生活者にはまず意味不明ですよね。一回これをどこかで生活用語に置き換えて、「平たく言えば・・・」という言い換えをしないといけない。(中略)
 それだけでなく、二つの世界の橋渡し役という仕事の重要性を切実に感じているんです。(中略)その仕事は、アカデミックな言語も生活言語も話せる「二重言語話者」にしか担うことができない。そういうタイプの人間のことを「男のおばさん」と僕は名付けたわけです。』

『今の日本で、「女のおばさん」が減っているでしょう。どんどん「女のおじさん」化している。おばさんがいなくなったことが、日本の問題なんじゃないか。(中略)女の子はおばさんになることを嫌がってるんです。それは仕方がない。じゃあ、僕たちがおばさんになります。日本のおじさんは、もともとはおばさん的なんですよね。』・・・と。

 内田樹は、哲学的という論理的で難しいことをふつうの人にもわかりやすく話しすることの必要性と、女性なら本来こう感じたり考えたりするであろうこと、特に男性や社会に対する不満などを女性に成り代わって話すことの必要性、二つの必要性を言っている。第一の必要性は、女性に限らない。第二の必要性は、女性に限ってのことであるので、なかなか難しいかもしれない。男と女の違いは非常にたくさんある。それを書いた良いホームページがあるのでここに紹介しておく。

http://www.kotobasagashi.net/danjyo/01.php

 私は、その他に、日本特有の考えを世界の人々に向けてわかりやすく論理的に話しすることが今求められているように思う。この第三の必要性は日本全体の問題で、男とか女は関係ない。日本文化は、欧米文化と比べて、女性的である。というのは、第4章での脈絡から言って、日本文化には「穴」が開いているからである。日本は河合隼雄のいう中空構造になっているのである。そこがユダヤとは根本的に違うところで、曖昧というか非論理的というか、女性的なのである。日本人はおおむね主体性がない。中村雄二郎のリズム論で言えば、日本人は述語的なのである。みんなで一緒に渡れば怖くないのである。できるだけ自己主張はしないで、黙っておく方が良い。沈黙は金なのである。しかし、これからそういうことで世界のリーダーになれるか? よくよく考えねばなるまい。そこで、以下、第三の必要性について河合隼雄の論考があるので、彼の考えを紹介しておきたいと思う。

 河合隼雄は、その著書「神話と日本人の心」(2003年7月、岩波書店)の中で次のように述べている。すなわち、

『ユング派の分析家、エーリッヒ・ノイマンは、人間の意識のあり方、特にヨーロッパ近代に出現してきた「自我」を、人間の精神史におけるきわめて特異な存在としてとらえ、その成立についての神話的な基礎について論じた。
 この際にノイマンは、無意識から明確に分離され、無意識の影響から自由になり、それを支配しようとする傾向の強い意識を父権的意識と呼び、これに対して、無意識と意識の分離が不明確なままの状態の意識を母権的意識と呼んだ。ここで彼は、このような呼び方は、現実の人間としての男性、女性とは別のことで、西洋の近代においては、男性も女性も父権的意識を確立しているが、非近代的社会においては、男性も女性も母権的意識を持つ、と考える。(中略)
 西洋中心的な味方をすると、母権的意識から父権的意識という流れによって、人間の意識は発展してきたことになる。(中略)
 父権的意識の区別する強さに対して、母権的意識は、区別するよりは一体化すること、包み込むことにその力を発揮する。それは、父権的意識から見れば「あいまい」と呼ばれることになる。(中略)
 子供を産む女性、つまり母の力というものは、古代の人類にとって実に大きく感じられたであろう。そして、特に農耕民族の場合は、大地から必要な穀物が生み出されてくることとも関連して、地母神が崇拝の対象となることが多かったであろう。実際に、女性の乳房、臀部、性器などが極端に強調された地母神の像が、日本の縄文時代を含めて、世界各地の古代の埋蔵物として発掘されている。』

『日本神話の全体を中空均衡構造としてみることを提唱したが、実はこれで終わっていないところが日本神話のすばらしいところである。厳密に言えば、日本神話の全体は、中空均衡構造には収まりきらないのである。その収まりきらない神が、ヒルコであり、ヒルコについて考えてみることは、日本神話を考える上で決定的な重要性を持っている。』

『結婚の儀式おいて、女性が先に発言したのがよくなかったので「水蛭子(ひるこ)」が生まれ、それを葦舟に入れて流し去ってしまった。つまり、ヒルコは日本の神々に受け入れられなかったのである。これは、中空均衡構造は、その中に対立や葛藤が存在しても、全体的な調和を乱さない限り、そのまま共存し得るところに特徴があるとすでに述べたことから考えると、きわめて異例なことである。』

『ヒルコが、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの重要な三神と匹敵するほどの重要性をもっていた、と考えられる。しかし、ヒルコは流し去られてしまった。
 一度は水に流された者が、助かって帰ってくるとき、それはその帰属集団にとって極めて重要な存在となる、という話は、世界中の神話・昔話に認められる。その中ですぐに思いつくのをあげると、モーゼの話がある。(中略)
 何らかの中心によってまとまっている秩序体系より排除されたものが、周辺部において力を得て、それまでの秩序とは異なる新しい体系をつくりあげる。それこそが英雄なのである。個人の心理として言えば、それまでの人生観、世界観からすれば相容れない、あるいは取るに足らないと思っていたことが、逆にもっとも重要であることを認識して、世界観がガラリと変革することを意味する。このような中心と周辺のもつ逆説的な意味を、棄てられた子の復活の物語はものがたるのである。
 それでは、日本神話におけるヒルコはどうであろうか。ヒルコは流されたまま帰って来なかった。これはどうしてだろうか。それにヒルコとはどのような神であったのだろう。』

『アマテラス、ツクヨミ、スサノオという三貴子が中空構造を形成するとき、ヒルコはそれに入れられなかった。ヒルコという名が、アマテラスの別名、オオヒルメノムチと対比するとき、ヒルメ(太陽の女性)に対してのヒルコ(太陽の男性)を意味するのではないか。ヒルコを男性の太陽神であったと考えてみると、話が合ってくる。それは、あくまでも中心にあった全体を統合しようとする存在であり、中空構造とは相容れない。結婚の儀式において女神が先に言葉を発したので、それをバランスするために男性の太陽神を生んだが、それはバランスをとるような存在ではなく、自らが中心に座る存在だったので、あわてて流し去ってしまった、と私は考える。』

『現代日本人の課題は、神話的言語によって表現するならば、遠い過去に棄て去られたヒルコを日本の神々の中に再帰させること、と言えるだろう。しかし、それはほとんど不可能に近いことだ。少々の対立があっても全体に収める中空均衡構造におさまらなかったからこそ、ヒルコは棄てられたのだ。ヒルコを不用意に再帰させると、中空均衡構造は壊滅してしまう。』

 以上である。この後も河合隼雄の論説は続くが、それらは今後の課題であるし、多少私の意見と違うところもあるので、ここではあえて省略した。以下に私の思いを述べよう。

 梅棹忠雄はその著「美意識と神さま」(昭和59年12月、中央公論社)で、「日本文明は文化的諸要素のシンクレティズムをゆるさない文明なのである。」と述べている。シンクレティズムとは、彼がいうように、混淆(こんこう)信仰ないしは重層信仰と訳されるが、日本の歴史上シンクレティズムが実現したのは修験道だけである。たしかに、日本文化の特質としてこれをゆるさない文化があったと思われる。このシンクレティズムをゆるさない文化というか、両極端にあるものを両方とも成り立たせる文化を、私は、ハイブリッド文化と呼ぶことにするが、このハイブリッド文化が日本の歴史上出現した有名なものとして、聖武天皇の大仏殿建立や北条泰時の御成敗式目がある。私は河合隼雄の考えとは違って「矛盾システム」を乗り越える方法はあるし、「矛盾システム」を乗り越えたところに新しい発展があると考えている。私のこういう考えは、とりもなおさずシンクレティズムであるが、これからは、世界平和のために、シンクレティズムによって世界に共通する神さまを創っていかなければならないのである。
 なお、私は、シンクレティズムとハイブリッドな思想のどちらが良いかということを言っている訳ではなく、どちらでもいいと考えている。
 いろんな問題の解決に当たっては認識論が基本的に大事である。禅の言葉に「両頭、倶 (とも)に截断(せつだん)して一剣天に倚(よ)って寒(すさま)じ」というのがあり、これを略して私は両頭截断(りょうとうせつだん)と言っているのだが、禅では、相対的認識でなく、絶対的認識の必要性を言っている。ものごとには両義性があり、例えば白か黒かとか善か悪かだとか、二者択一を迫ることが少なくないのだが、そういう二者択一 でなく、白でもないし黒でもない、白といえば白だし黒といえば黒だというような絶対的認識が重要だというわけだ。しかし、私のいう「両頭截断」は、絶対認識という本来の意味を拡大解釈して、互いに違いを認めながら一つの結論を出すということだ。
 拙著「祈りの科学」シリーズ(4)で、言葉の源流・ボコ岩の創作神話に触れた。アイヌである著者の山本多助は、「言葉の源泉を訪ねて」という作品で、心の源流である「野生の思考」と「祈り」の重要性を訴えているのだが、彼がいうように、私は、今後、世界に共通する「祈り」を創っていかなければならないと考えるのである。もちろん、それは脱宗教的なものでなければならない。

 河合隼雄は、京都大学の創立百周年の記念講演会で特別講演をして、これからの時代私たちは「矛盾システム」を生きていかなければならないと述べた。「矛盾システム」を生きる。良い言葉である。私もそうだと思う。現状は確かにそうだと思うが、将来はどうか。河合隼雄は、中沢新一の「モノとの同盟」という考え方や「光と陰の哲学」をどう見ていたのか。その点を知りたいところだが、私は、未来に対する希望はけっして捨ててはならないと思う。私は、「矛盾システム」を生きながら何とかそれを乗り切る知恵こそ大事で、それが民族としての英知であると思っている。民族としての英知、それは「歴史感覚」からしか学び得ない。民族としての英知は必ず存在している。見えないだけだ。しかし、「歴史感覚」をもってよくよく見れば・・・、見えないものが自ずと見えてくるのではないか。今必要なのは、「矛盾を乗り切る平衡感覚」である。それは「歴史感覚」そのものである。私も、私なりの「歴史感覚」から、今の「矛盾システム」は何とか乗り切れるのではないかと直感している。私はよく「両頭截断」ということを言うが、それは「矛盾システム」を何とか乗り切ろうということである。そこが私と河合隼雄の考えが違う。「矛盾システム」を乗り切るところに新しい発展があるのだ。

 平成23年11月21日に明治大学に中沢新一を所長とする「野生科学研究所」がスタートした。「野生の心とは何か?」「野生の精神とは何か?」あらゆる学問分野を結集して、野生についての研究を進め、新しい文明を切り拓(ひら)いていこうという中沢新一の壮大な意図が感じられる。さらに、このたびの「日本の文脈」における対談を契機として、おそらく中沢新一と内田樹の連携が始まるであろう。この日本を代表する二人のすばらしい知性によって、きっと新しい地平が切り拓(ひら)かれていくであろう。そのことを心からお祈りして、「日本の文脈」の書評を終わりたいと思う。

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