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2013年5月16日 (木)

秦氏について

秦氏について

さて、秦氏のことであるが、秦氏というのは誠に不思議な一族で、この一族を理解しないで日本の歴史は語れないというほどのものだ。秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系に限らず、さらには渡来系や在来の人たちに限らず、また鉱山や鍛冶に限らず、土木や養蚕や機織りの技術集団を束ねて全国の殖産に力を発揮した一族である。その秦一族の中で、いちばん有名なのは聖徳太子の側近であった秦河勝であろう。どうもこの人が偉大な人物であったようだ。
秦河勝のことについては、かって私は、中沢新一に「精霊の王」にもとづいて「胞衣(えな)信仰」というタイトルで少し触れたことがある。秦氏に関連する部分を再掲しておくと、中沢新一は、次のように言っている。すなわち、

『 猿楽の徒の先祖である秦河勝は、壺の中に閉じ籠もったまま川上から流れ下ってきた異常児として、この世に出現した。この異常児はのちに猿楽を創出 し、のこりなくその芸を一族の者に伝えたあとは、中が空洞になった「うつぼ船」に封印されて海中を漂ったはてに、播州は坂越(サコシ)の浜に漂着したの だった。その地で、はじめ秦河勝の霊体は「胞衣荒神」となって猛威をふるった。金春禅竹はそれこそが、秦河勝が宿神であり、荒神であり、胞衣であること の、まぎれもない証拠であると書いたのである。
 ここで坂越と書かれている地名は、当地では「シャクシ」と発音されていた。もちろんこれはシャグジにちがいない。この地名が中部や関東の各地に、 地名や神社の名前として残っているミシャグチの神と同じところから出ていることは、すでに柳田国男が『石神問答』の冒頭に指摘しているとおりで、「シャグ ジ」の音で表現されるなにかの霊威をもったものへの「野生の思考」が、かつてこの列島のきわめて広範囲にわたって、熱心におこなわれていたことの痕跡をし めしている。』・・・と。
何故、秦河勝は播州・坂越(サコシ)の浜に流れていったのか? 何故か? その疑問について、私は、ずっと気になっていたのだが、谷川健一は「四天王寺の鷹」の中でそのことの明確な説明をしている。まさに目から鱗が落ちる想いである。では、「四天王寺の鷹」の最大のハイライトと思われるその部分を以下に紹介しておきたい。彼は、次のように述べている。すなわち、
『 秦河勝と聖徳太子との密接な関係は、太子没後、彼のおかれた社会的、政治的立場を危なくさせることにもなった。蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)は聖徳太子の嫡子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)と秦河勝の関係に警戒の目を向けていた。(中略)この頃、蘇我蝦夷・入鹿父子の横暴は目に余るものがあった。硬玉2年(643)には、蝦夷はひそかに紫冠を子の入鹿に授け、大臣に擬する不遜な振る舞いもみられた。その年、山背大兄王が入鹿によって殺されるのを河勝は目の当たりにしている。(中略)そこで入鹿の迫害が及んでくることをひしと感じた河勝は身の危険を避けるために太秦をはなれ、ひそかに孤舟に身をゆだねて西播磨にのがれ、秦氏がつちかった土地に隠棲したと推測される伝承が伝えられている。世阿弥の「風姿花伝」に並びに世阿弥の娘婿の禅竹の「明宿集」にその記述が見られる。』・・・と。

世阿弥は秦一族である。私は、先ほど「 秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系に限らず、さらには渡来系や在来の人たちに限らず、また鉱山や鍛冶に限らず、土木や養蚕や機織りの技術集団を束ねて全国の殖産に力を発揮した一族である。」と述べたが、秦氏の子孫に世阿弥が出ている。 明宿集」に秦河勝の子孫に三流あり、一は武人、二は猿楽、三は天王寺の楽人とあるように、秦河勝を先祖と仰ぐ円満井座の猿楽者と天王寺の楽人との間には根強い結縁意識があったらしい。
秦一族は、特に東北地方の発展に大きな力を発揮していくが、このことを理解するには、物部氏のことをまず理解しておかねばならない。秦一族は、物部守屋が蘇我蝦夷と入鹿 に殺されてしまってから、物部一族の統括していた技術者集団を引き継いでいくのである。

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