« 平和国家としての靖国神社 | トップページ | 憲法改正について »

2013年4月25日 (木)

縄文商人について

黒曜石は何故遠くまで運ばれたか?

「縄文時代の商人たち・・・日本列島と北東アジアを交易した人びと」(小山修三、岡田康博、2000年8月、洋泉社)という素晴らしい本がある。

この本は、元国立民族学博物館の小山修三さんと青森県教育庁の岡田康博さんが、主に青森県の有名な縄文時代の遺跡である三内丸山遺跡を中心として、 縄文時代の様々なテーマについて対話した記録である。

序章.縄文商人の発見
第一章.なぜ発見が遅れたのか?
第二章.何をどのように商っていたのか?
第三章.三内丸山が縄文商人の拠点になった理由
第四章.マージナルな縄文商人たち
第五章.縄文商人が活躍した社会とコスモロジー
第六章.交易舟に乗った「海の商人」
第七章.縄文社会の盛衰に対応する商人たち
第八章.三内丸山の消滅と、縄文商人の行方
終章.新しい縄文時代像の可能性に向けて

 三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期にかけての集落遺跡である。ここでは、ヒスイ・黒曜石・琥珀・アスファルト等が発見されており、縄文時代の商 人が持ち込んだという仮説がこの対話の中心だ。対話なので、通常の本とは異なり、大胆な仮説も提唱されており、大変、参考になる。

縄文時代に黒曜石が随分遠くまで運ばれている。その目的は交易かそれとも部族同士の交流なのか? その点について考えてみたい。

例えば、八ヶ岳のが黒曜石が三内丸山遺跡まで運ばれているが、伊豆の黒曜石が阿賀野川の津川という所まで運ばれている。津川にある「小瀬が沢洞窟」と「室谷洞窟」という二つの遺跡は、阿賀野川水系只見川に近いところにある。 私は、津川の遺跡について書いたことがあるので、まずそれを紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyokigen.html

小瀬が沢洞窟と室谷洞窟 は,特別の技術集団の工房であった可能性が高く,それが故に,北海道産の黒曜石や神津島の黒曜石がそこに運ばれてきたらしい。私が上記のホームページで提起した問題は,何故その場所が特別の技術集団の工房に選ばれたかということである。「縄文文化の起源を探る・小瀬が沢・室谷洞窟」(小熊博史、2007年5月、新泉 社)では,その理由として,その場所が地理的な要衝だからと言っている。私もそう思う。しかし,何故そこが地理的な要衝なのかについては,小熊博史の説明 では腑に落ちないところがある。そこで、黒曜石7不思議の七つ目の不思議として、「何 故, 小瀬が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という問題提起したのであるが、「何故、そういう交通の要衝に小瀬が沢洞窟と室谷洞窟 は,特別の技術集団の工房であった可能性が高く,それが故に,北海道産の黒曜石や神津島の黒曜石がそこに運ばれてきたらしい。

 さて,問題は,何故その場所が特別の技術 集団の工房に選ばれたかということである。「縄文文化の起源を探る・小瀬が沢・室谷洞窟」(小熊博史、2007年5月、新泉 社)では,その理由として,その場所が地理的な要衝だからと言っている。私もそう思う。しかし,何故そこが地理的な要衝なのかについては,小熊博史の説明 では腑に落ちないところがある。そこで、黒曜石7不思議の七つ目の不思議として,「何 故, 小瀬が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という問題提起をしたのであるが、「何故、交通の要衝である津川に黒曜石加工の工房ができたのか?」という問題については、工房というからには、その目的が交易であることは自ずと明らかであるので、黒曜石運搬の目的、すなわち「交易と交流の問題」については追求しなかった。それを今回考えてみようという訳だ。
なお、「黒曜石七不思議」については、次のホームページを、是非、ご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/7husigi2.html


では、「交易と交流の問題」について考えてみよう。そんなに遠くの部族どうしの交流なんてものはおおよそ考えにくいので、私は、 黒曜石運搬の目的 やっぱり交易だと思うが、その場合、何と交換したかという問題を考えてみなければならない。
この問題については、考古学的な証拠はないので、頭の中で想像するしかない。黒曜石を遠路はるばる運んできて、またもとのところまで帰らなければならない。交易をして交換物を持ってもとのところまで帰るとしたら、その交換物は 軽くて持ち運び易いものでなければならない。それは何か?  そんなものを想像することができるか? 私にはおおよそ想像できない。私は、黒曜石を遠路はるばる運んできた人たちは、黒曜石とその地域の特産品と交換したのだと思う。その地域の特産品は、近隣の部族と交換できる。黒曜石を遠路はるばる運んできた人たち、それは縄文商人と言って良い人たちであるが、縄文商人は黒曜石を遠隔地まで運んできて、またもとのところまで帰っていく。その帰り道を想像してほしい。近隣から近隣と渡り歩きながら、それぞれの地域の特産品を商取引きしたのである。その渡り歩いた人達こそ商人以外の何ものでもない。間違いなく縄文商人は存在したのである。

どんな部族集落にも商人は居たと思う。そういう部族集落の中に、三内丸山遺跡のような商業集落があっても何の不思議もない。私は、 元国立民族学博物館の小山修三さんと青森県教育庁の岡田康博さんが 言うように、三内丸山は商業港であったと思う。三内丸山が商業港であるということについては、批判的な意見が少なくないが、私は、小山さんや岡田さんの見解に賛成だ。私は、縄文商人が集まる部族集落が日本列島の所々にあっても何の不思議もないように思う。


« 平和国家としての靖国神社 | トップページ | 憲法改正について »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/51366681

この記事へのトラックバック一覧です: 縄文商人について:

« 平和国家としての靖国神社 | トップページ | 憲法改正について »