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2013年4月23日 (火)

歴史を語ろう!

 世界的な歴史学者J・ホールという人がおります。J・ホールの「日本の歴史」という翻訳本が講談社から出ておりますので、読まれた方もあると思いますが、J・ホールはその本の中でこう言っております。一寸、長いけれど読んでみます。
「日本は、その近代以前の歴史を通じて、構造変化は、……緩慢に起こり、しかも、外部の圧力よりも、より多く国内の諸力によってもたらされた。そして、このことの結果として、一応は新しいものに置きかえられてしまった諸制度も、確かに放棄され、脇にやられはしても、完全に一掃されることは滅多にないという傾向が生まれた。このようにして連続性をもった諸要因が、日本文化史という織物の中を一貫して走っており、云々……。」
 このように言っております。そしてまた「日本の歴史は、……人の心にひびく、人の想像力をかきたてることができるような、内在的な特質をいくつか持っている。」このように言っております。
 さらにJ・ホールは、「日本は、深遠な価値のある教訓を歴史家に与える、云々……。」とまで言っているのであります。つまり、世界の歴史家にとって、日本の歴史は、大いに学ぶべき点が多い、ということのようであります。
 そこで、思うのでありますが、歴史家のみならず一般の外国人にも、日本の歴史の特質、日本文化の特質、日本人の特質というものを正しく理解して欲しい。私はそのように考えております。そしてそのためにも、我々自身、先ほどから、累々述べて参りましたような、歴史を生かした地域づくりを進めることがもっとも重要である。そのように思うのであります。
 かって、中国・地域づくり交流会の「哲学のみち研究会」では、哲学者・中村雄二郎先生のお話をお聞き致しましたが、中村先生は、その著「哲学の現在」の中で「歴史への人間の関心にはきわめて本質的なものがあるようだ」と仰言っておられます。そして、「私たちは、自分たちの生きている時代や社会をよりよく認識するために、また、込み入った問題、解決しにくい問題に対処して生きていくためにも、自分たちの時代、自分たちの社会をできるだけ総体的に、できるだけ多角的に映し出す鏡が必要だ。歴史とは、私たち人間にとって、まず何よりもそういう鏡ではないだろうか。」と仰言っておられます。さらに先生は、哲学者としてこのようにも仰言っています。「私たちは身体をもつのではなく、身体を生きるのである。歴史についても、それと同じように、私たちは人間として歴史をもつのではなくて、歴史を生きるのである。すなわち、私たちにとって、身体とは皮膚で閉ざされた生理的身体だけではなくて、その活動範囲にまで拡がっている。それと同じように私たちは人間存在として自己と共同社会との絡み合いのなかで、瞬間、瞬間を生きながらにそのことによって、重層的な時間から成る、出来事としての歴史を生きる。ということは、つまり、歴史とは、拡張された私たちの存在そのものだということである。そして、私たちは、人間として自分自身を知ることが必要でもあり、根源的な願望であるとすれば、その欲求と願望はおのずと私たちの存在の拡張としての歴史に向けられるであろう。いいかえれば、私たちにとって歴史を知ることは、すぐれて自己を知ることなのである。ここに、私たち人間にとって、歴史を知ることの格別な意味があり、またそのために、私たちは歴史に強く惹かれるのだといえるだろう。」
 少々長くなりましたが、歴史というものを認識する上で、この先生の考え方は誠に重要あると思いますので、紹介させていただいた次第であります。私達が共同社会に生きる以上、歴史を知るということは、本質的なものである、ということであります。
「我思う、故に我あり。」 これはデカルトの哲学でありますが、中村先生は、そうではなくて、「我語る、故に我あり」だと仰言っておられます。これからの哲学としては、我思うと同時に我語る、故に我がある。そういうことのようであります。我語る。私達は、大いに語らなければなりません。ロマンある地域づくりを目指して、地域の歴史を思い、地域の歴史を語り、そして地域のロマンを語らなければなりません。まずは語ることであります

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