« 天地から見放されないために! | トップページ | 御幣と魔除け »

2013年1月 3日 (木)

呪力について(抜粋)

呪力について(抜粋)

第1章 怨霊

呪力とは、デジタル大辞泉によると、まじない、またはのろいの力。呪術の基礎をなす超自然的・非人格的な力とある。大辞林によれば、①まじない,またはのろいの力。②特定の人・物・現象などにやどると信じられている超自然的な力。 →「マナ」 とある。この「マナ」については学問的にもいろいろと研究されているが、私はそれらも含めて呪いの力すなわち呪力というものは実際に存在すると考えている。電子書籍「祈りの科学シリーズ(1)」の「<100匹目の猿>が100匹」では若干そのことに触れた。まずそれを振り返るところから呪力の話をはじめたいと思う。

第13章「内なる神」と第14章「おわりに」で次のように述べた。すなわち、

『 話をごろっと変えよう。悪魔の話である。実は悪魔も存在するのである。「呪い」というのがある。「丑の刻参り」というのをご存知でしょうか? わら人形を木にくくり付け,相手を強く呪いながら金槌で五寸釘を打ち付けるのである。かって私は貴船という題で「丑の刻参り」の話を書いた。能にも出てくる「鉄輪」の話である。紙枚の関係もあり,あえてここでは書かないが,興味のある方は私のホームページを見てもらいたい。
 要するに,「内なる神」や「外なる神」が存在するし,一方で,「内なる悪魔」や「外なる悪魔」が存在するのである。ゲーテの「ファースト」はある老科学者が悪魔と取引をして悪魔と共生する話だが,中村雄二郎はリズム論の立場から,今ゲーテが面白いと言った。私もゲーテは神もおれば悪魔もいるという真実を見ていたと思う。ゲーテは面白い!』
『ところで,日本の歴史の中で平安時代がいちばん平和な時代であったと言われている。平安時代のどこに平和の原理が隠されているのか?当時、ちょうど平安遷都1200年ということもあって、私は, 平安時代のどこに平和の原理が隠されているのか・・・ そんな疑問を持ちながら,「怨霊,妖怪,天狗」の勉強をはじめた。平安時代というのは,怨霊のうごめく時代であった。多くの権力者が「呪い」におびえる時代であった。そういう時代がなぜ歴史上いちばん平和な時代になったのか? その秘密は,どうも御霊神社がそうであるように,「祈り」にあるようだと気がつきながら,私は、これから私の哲学の勉強をどう進めていけば良いのか,はたと困ってしまった。「平安遷都を訪ねて」という「怨霊,妖怪,天狗」を訪ねる私の旅は,そのとき、山寺(立石寺)の慈覚大師まで辿り着いていたのだが,それから先どういう旅すれば良いのか?』・・・と。

貴船の「牛の刻参り」のホームページは、http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kibunejin.html であるが、「鉄輪(かなわ)」については、次のホームページを見てもらいたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kanawa.html
また、「杜若(かきつばた)」というページで「泰山府君」や「土蜘蛛」や「鞍馬天狗」ともリンクが張ってありますので、それらを呪力と関連するものとしてご覧戴きたい。この世には誠に不思議な世界があるものだなあと感じていただければそれで結構です。

さて、「平安遷都を訪ねて」という「怨霊,妖怪,天狗」を訪ねる私の旅については、次に紹介する一連のページをご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/tabi/heian.html
私は、「怨霊,妖怪,天狗」を訪ねる旅を「北嶺の人」「赤山禅院」「鞍馬.貴船」「怨霊・鬼・妖怪」「立石寺」と続けて、これから先「平和の原理」を探るために何を勉強すれば良いのか、はたと困ってしまったのである。ちょうどそのとき、千歳栄さんから徳一の話を聞き、また中沢新一さんの「フィロソフィアヤポニカ」を読んでいろいろと勉強を重ねて今日に至っている。私の「祈りの科学シリーズ(3)」では「祈り」と関連して「怨霊」についても書いた。第1章「天皇にまつわる怨霊」、第2章「御霊信仰と陰陽道」、第3章「平将門の怨霊」、第4章「鎌倉大仏建立の謎」、第5章「怨霊普遍」、第6章「御霊信仰から村の祭りへ」といったものだが、表紙には次のように書いた。すなわち、
『 天神、神田明神、鎌倉大仏は、怨霊信仰がもととなって建立された。日本の三大怨霊は菅原道真と平将門と源頼朝である。今や守護神に変身しているが、それら三大怨霊の力が抜群に大きかっただけに、天神さんや神田明神や鎌倉大仏のお利益は絶大である。せいぜいお参りをして欲しい。怨霊信仰は時代とともに進化して村の祭りとも繋がっていく。 祭りの最大の意義は、「外なる神」との交信にある。人々と「外なる神」との響きあう重要なインターフェース、それが村の祭りである。「祈り」こそ大事。今後、世界共通の「祈り」を創っていかなければならないと思う。』・・・と。
それら各章の内容については、是非、次の電子書籍をご覧戴きたい。結構面白いと思います。
http://honto.jp/ebook/pd_25231956.html

さて、私の電子書籍では、上述のように怨霊についてはある程度書いたけれど、妖怪や呪力についてはまったく書かなかったので、結局、「怨霊,妖怪,天狗」を訪ねる私の旅は終わったとは言い難い。そこで、「怨霊,妖怪,天狗」を訪ねる私の旅を終わらせて、「平和の原理」というものに対する私の結論を出さねばならないという思いから、もう一度怨霊や妖怪の勉強をし直し始めているところである。

第2章 岡本太郎の「美の呪力」について
はじめに
「平和の原理」というものに対する私の結論を出さねばならないという思いから、もう一度怨霊や妖怪の勉強をし直し始めて、怨霊や妖怪のことについてはそれを書く準備もおおよそできたのであるが、呪力のことについて、岡本太郎の「美の呪力」(平成16年3月、新潮社)を読み直して、今さらながら、未熟さを痛感しているところである。そこで、以下において、その要点を書き記し、私の思索を深めていきたいと思う。この本については、鶴岡真弓が解説を書いていて、・・・『「芸術」と「文明」を、行為して、思索して、世界中を駆け巡った「岡本太郎」。その眼と脳と皮膚で世界美術史を踏破した、熱い言葉の叢(くさむら)。「美の呪力」に収められた「著述/著術」を前にして、太郎が示した思考の鮮度にたじろがない者はいないだろう。』・・・と言っているが、確かにこの本は凄い本である。今私はこの本を勉強できる幸せを噛み締めている。
では、勉強をはじめよう! ここでの勉強は、この本の中で岡本太郎が「のろい」とか呪術とか呪力とか呪文とか「呪」のつく言葉を使っている箇所をいくつか拾い読みしながら、私なりの考察を加えるというやり方で行うこととしよう。

第1節 呪術の定義
『 本当の世界観は、現時点、この瞬間と根源的な出発点からと、対立的である運命の両極限から挟み撃ちにして、問題を突き詰めていかなければならないはずだ。歴史は瞬間に彩りを変えるだろうし、美術は、美学であることをやめて、巨大な、人間生命の全体をおおい、すくいあげる呪術となって立ち顕われるだろう。』
美の術とは何か? 美というものも、歴史的な流れに応じて変わっていく。したがって、現在美だと思われているものも将来は美とは認識されないかもしれない。
ハイデガーの「根源学」では、人間社会に実存している現象、木にたとえれば生い茂って
いる枝や葉のことであるが、枝葉を見てその根っこの部分を認識しようとするものである。根っこの部分とは、物事の本質を意味するが、それは目に見えない。目に見えないものをどう認識するのか。その方法が根源学である。根源学では、「世界的内在」というという概念が大事であるので、まずそのことを説明したい。私たちは歴史を生きている。歴史的人間である。鶴見和子の「つららモデル」というのがあるが、過去は現在に繋がっている。ハイデガーは、過去という言葉は使わないで、「過在」と言っているが、その意味は、現在に繋がって今なお存在しているという意味である。私たちが身の回りのさまざまな物とのかかわり合う際にも、そこには歴史的に形成されてきた種々の意味や解釈が作用していること、そして、私たち自身の態度や意識も歴史的に形成されている。これがハイデガーの基本的認識であって、私たちの生とは、歴史を紡ぎつづける生、過去の人びとによる遺産を受け継ぎながら伝統を形成する生なのであって、ハイデガーは「歴史的な生」と呼び、そういう生を生きる「私」のことを「歴史的な私」と呼んでいる。これは「宇宙的な私」とは対極的なものである。私たち人間が歴史的な作用の中にあることは、宇宙的な生命の一部として自己の生を感知するのとは違って、あくまで、分析的な作業、あるいは自分の中に沈殿したさまざまな意味の層を掘り起こし、その根っこの部分(源泉)へと突き進んでいく作業が大事で、そういう作業を通してはじめて解明されることがらである。つまり、歴史的な層の解体作業によって「隠蔽されている」その殻(から)を突き破らなければならない。そうしないと根っこの部分に存在する真理に到達できない。こういう作業をするのがハイデガーの「根源学」であるが、みなさんに注意してもらいたいのは、禅でいうところの「両頭截断」との違いである。「根源学」の方は理性的な論理展開によって真理に到達する。一方「両頭截断」の方は直観によって一気に真理に到達するのである。西洋哲学において「直観」という言葉を使っている場合もあるが、それはあくまで理性的なものであって、私のいう「霊性的な直観」とは違う。だから、西洋哲学で「直観」という言葉が出てきたら、「直知」とか「直感」と言い換えるべきである。「直知」や「直感」と「直観」とは違う。ハイデガーも、最終的には、「直感」という言葉を使わずに、「理解」という言葉を使っている。さて、「世界的内在」という概念であるが、「歴史的な生」とか「歴史的な私」ということをご理解いただいたところで、説明する。この世界は「歴史的」なのである。つまり、人間はいわば荒涼として凍てついた宇宙の中で、一人孤独な主体として生きているのではなく、歴史的に形成されたさまざまな意味関連の中で生きている。私たち人間は、そういうことを意識しようがしまいが、意識以前の事柄として、そういうふうに生かされているのである。これが「世界的存在」という概念である。そういう概念のうち、ハイデガーは、特に人間に焦点を当てて「現存在」と呼んでいる。「現存在」とは歴史的に生かされている人間のことである。すべてのものは「世界的存在」である。そして、すべてのものは、根っこの部分にある見えない本質(ハイデガーが「ツハンデネス」と呼ぶもの)と、眼前に生い茂った枝葉(ハイデガーが「フォルハンデネス」と呼ぶもの)に分かれて存在しているが、私たちが意識して「ツハンデネス」に注目するとき、「フォルハンデネス」が眼前に立ち現れてくる。その眼前に立ち現れてくる「フォルハンデネス」を認識するのが、ハイデガーが「原体験」と呼ぶものであ

る。すなわち、「原体験」とは、意識的な対象認識であって、理論的な対象認識とは対極をなす。ハイデガーは、こういう「原体験」をすることを「世界する」という。「現存在」とは、先ほどと別の言い方でいえば、「原体験」をすることができるよう生かされている人間のことである。私たちは、「原体験」をする、つまり「世界する」ように生かされているからこそ、すべてのものは「世界的存在」なのである。
美も「歴史的内在」であって歴史的に変わるものであるが、その根源的なもの、すなわち本質的なものは変わらない。したがって、美というものを真に奥深く認識するには、岡本太郎が言うように、原存在と根源という対立的である運命の両極限から挟み撃ちにして、問題を突き詰めていかなければならないのである。そうすることによって、美術は、美学であることをやめて、巨大な、人間生命の全体をおおい、すくいあげる呪術となって立ち顕われてくる。呪術の一般的な説明としてウィキペディアではいろいろな説明がなされているが、私は、祈祷師の行う儀式・呪文や自然に存在する岩石や樹木、或いは岡本太郎や今西錦司など直観の働く超人的な人、それらに秘められた「霊的な力の利用」と定義づけたい。
すなわち、美の呪術とは、現時点で美と認識されているものや歴史的に美と考えられてきたものを踏まえながらも、それを超越してより根源的な美を認識できるようにする、すなわち真の美を認識するための「霊的な力の利用」である。
端的に言えば、「美の術とは、真の美を認識するための「霊的な力の利用」である。

第2節 岡本太郎のいう「石の呪力」

「美の呪力」(平成16年3月、新潮社) の中で岡本太郎が「のろい」とか呪術とか呪力とか呪文とか「呪」のつく言葉を使っている箇所は次のとおりである。

『 イヌクシュクには人間像になっていないものもあるというが、これがたとえ明らさまな人形(ひとがた)ではなくても、生活の中の神聖な像であり、呪術的役割を果たしていることは確かである。(中略)厳しい自然の抵抗の中を常に彼らは移動していた。獣皮で作った橇を走らせ、小舟を操り、アザラシやセイウチ、鯨を仕留め、トナカイを狩る。猟場を求めて、凍てつく荒漠たる天地を移動する。だからこそ、たとえささやかでも彼らの生命の証として、運命的な場所に、動かない、孤独に佇立(ちょりつ)した、この人形(ひとがた)を積み上げたのだ。自分たちの流動的な運命の中に、この最低限な、神聖な
標識、イヌクシュクは、彼らの生きてゆく切実な願いのしるしであり、それを受け止める守護神でもあったのだろう。』
『 石を積み上げるという神聖な、呪術的行為。たしかに、命を積んでいるのだ。石ころ一つ一つが命なのだ。それは取るに足らない、ささやかな、吹けば飛ぶ、蹴飛ばされれば転がって無明に転落してしまう命。宗教儀礼の聖なるカレンダーの周期ではない。瞬間瞬間、人間の命の周期は断絶なしにめぐっている。だから積むと崩れるとは同時なのである。とすれば、積むこと自体が崩れる、崩すことではないか。(中略)ただ単に石を積むという行為、それはいったい何なのだろう。蒙古、新疆(しんきょう)、チベットなどに「オボ」という聖所がある。石を積み上げて一種の壇をつくり、その中心に木を立てる。ここでシャーマンを中心とした祭りが行われるが、庶民日常の礼拝の対象でもある。この種の石塚の伝統は朝鮮のタン、中国・東北のアオなど北方ユーラシアの広々とした地表をおおい、ヒマラヤ山中からペルシャにまで及ぶという。私の眼に浮かんでくる。冷たく青く透き通った北方の空の下に、積み上げられている石積み。・・・身近なわが国の伝説、賽の河原を連想する。幼くして死んだ子供が三途の川の河原で小石を積み上げる。すると苛酷な鬼が出てきて、積むそばからそれを崩してしまうのである。あれは中世の地蔵信仰に基づいた伝説だ。仏教の因果ばなし、ご詠歌調の臭さが出ていて、それなりの面白さはあるが、そのイメージのもとにははるかな古代からの、石を積む習俗があったに違いない。』
『 石は大地のよりどころ、木は天空に向かっての標識である。天と地は無限の両極から人間の運命をかかえ、そして引き離す。木、石はそれに対応する呪術をはらんでいるのだ。』
『 一つここに驚くべき事実がある。エール大学のマイケル・コー教授の最近の発表によると、このオメルカの石の頭は最初から土に埋めてあったものらしい。粘土できちんと土台を作って据え、土をかぶせてあった。メキシコ南部サン・ロレンスで、雨のために偶然山が崩れ、そこに石造がわずかに露呈してきたのだ。これをヒントを得て、周辺の何でもない山肌を電波探知器で調べたら、このような石彫がまだ百あまりも埋もれていることが判った。今まで、土地の者によって掘り出されていたものだけで、謎に包まれていたこの巨石の顔は、いよいよ不可思議な神秘の相をあらわしてきた訳だ。顔を刻み、神格にしたのち、それをことごとく地面に埋めてしまう。これは一体どういうことなのだろう。大地に対する呪術なのか。それにしても、現象的には無になってしまうのだ。ただ無存在で「ある」、「なる」、ということよりもさらに激しい、積極的な還元である。何たる謎。』

『 鮮血・・・このなまなましい彩(いろど)りが、石について書いているとき、ふと私の心の中に湧き起こってきた。血を浴びた石。(中略)人間は石とぶつかりあいなが

ら、血を流しながら、生き貫いてきた。その残酷な思い出が心にうずくのだろう。血は清らかであり聖であると同時にケガレである。この誇りと絶望の凝縮・・・。今強烈なイメージとして、グリューネヴァルトの「磔(はりつけ)のキリスト像」、あのイーゼンハイムの祭壇画が眼に浮かんでくる。(中略)
 グリュウーネヴァルトに感動しながら、人間の業、傷口のいやらしさを、このように露(あらわ)にした絵に共感する、せずにはいられないこの状況に、腹が煮える思いがする。血だらけのキリスト像は、人間とそれを超えた宇宙的存在との悲劇的な噛み合い、いいかえれば人間そのものの運命を浮き彫りにしている。ヨーロッパ中世を数百年のあいだ強力に抑えていたキリスト教の運命が、時代の末期に、むきだしに傷口となり、血を噴き出している。この「呪い」にも似たイメージはキリスト教者でないわれわれにも、不思議になまな迫力で迫ってくるのだ。信者でない私はまったく外側から、自由に受け止めるのだが。神秘な感動は向こうからこちらに働きかけるばかりでなく、こちらから同時に対象に押し及ぼす。その交流は強烈なものだ。
 このような「血の呪文」がもしキリスト教世界の中でしか解けない、通じないとしたら意味がない。われわれが今日の人間的感動で根源的な血として意味を解読すべきではないか。その方がはるかに率直で、ダイナミックであり得る。それにしても、この絵はあまりにもなまなましい。(中略)この血は霊であり、生命のしるしである。(中略)あの残酷なリアリズム。凝固した血。単なる絵画表現をこえて、何か人間の絶望的な運命を予告する不吉な影を浮かび上がらせる。その呪術は今日まで、ながながと尾を引いているようだ。』



第6節 「石を積む」ことの哲学的意味
私たち人間は、いろいろな欲望や願いのもと、いろいろな努力をする。しかし、その努力は、目標が高ければ高いほど、無駄に終わりがちである。先の比喩では、ツァラトゥストラは「石を積む」のではなく、山路を小石を踏みしめて「高み」に向かって登っていくのだが、「石を積む」という行為も「重力の魔」に逆らって努力をするという意味では、比
喩的に同じことだ。「重力の魔」の仕業によって無駄になろうとも「石を積む」ように運命づけられた男の話、ギリシャ神話「シジフォスの神話」というのがある。「シジフォスの神話」については、カミュがその論考を行っているが、岡本太郎も「美の呪力」でそのことに触れ、次のように書いている。すなわち、

『 カミュは岩に向かって降りてゆく英雄に共感して言う。「私がシジフォスに心を惹かれるのは、この戻り道、この休止のときである。そのとき<すべてはよいのだ>という大肯定によって<不条理の勝利>を勝ち取る。その言葉は、満足できない、無意味な苦痛の味わいをもってこの世界に入ってきた神を追い出す。それは運命を人間のものにする。人間同士の間で解決されるべき問題として。シジフォスの無言の喜び、すべてがそこにある。運命は彼のものであり、彼の岩は彼自身のものだ 」・・・と。近代人の心情の泣き所を抑えた殺し文句だ。だがなにも降りて行くときまで待つことはない。つまり押し上げていながら落としているのだという虚無感は、誰でもの心の奥底にある。今日のニヒリズムはそういう(カミュの言うような)カッコイイ、ヒロイズム(英雄的行為)ではすくい
とれないほど深く、一般的なのである。すべての人間が、暗い谷底に転がっている石である己の姿を触知している。このように考えてくると、あの空しい賽の河原の石積みが、現代と一見断ち切られていながら、何か言いようのない繋がりを暗示しているようだ。』・・・と。

ところで私は、電子書籍「書評・日本の文脈」「第1章キリスト教」のところで、中沢新一と内田樹の「霊性論」に触れ、『 ここでいう穴とは、神とか霊とかの通う穴のことを言っている。能舞台の切戸口はそういうもので、穴を開けておくとは、合理的な考えにこだわらないで、非合理な側面を認めておくことをいう。ラカンの言葉に「真実は言葉では語れない」というのがあるが、私たちは言葉で考えるので、私たちが考える考えというものには限界があって、なかなか真実に近づくことはできない。だから、いろんな人が真実に近づきながらいろんなことを言うのである。そのいろんなことが感じたまま自由に語られるということが大事である。』と書いた。彼らの「霊性論」については、 電子書籍「書評・日本の文脈」を読んでいただきたい。
http://honto.jp/ebook/pd_25249964.html

そして、ラカンについては、かって「ラカンの鏡面段階論」というのを私のホームページに書いたので、是非、それをご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kyorakan.html

それらの詳しいことはここでは省くとしても、「真実は言葉では語れない」ということだけはしっかり頭に入れておいてほしい。 私たちは言葉で考えるので、私たちが考える考えというものには限界があって、なかなか真実に近づくことはできないのである。もちろん、ハイデガーの「根源学」は理性的な論理展開によって真理に到達するためのものであり、けっして理性的な論理展開で真理の到達できない訳ではない。内田樹は、「日本の文脈」の中で・・・『 ユダヤには「脳の機能を活性化する」構造がある。例えば、ユダヤ教においては、常に「中心が二つ」あって互いに真剣な議論がされている。タルムードにはエルサレム版とバビロニア版の二つのバージョンがあるし、タルムードを研究する学院も二カ所あり、同時代に必ず二人の偉大なラビが出てきて、おたがいに激烈な論争をする。だから、一つの結論に落ち着くということがない。ユダヤ教の聖典であるタルムードは「増殖する書物」なんです。』・・・と言っているが、こういう方法も確かに理性的な論理展開で真理に到達する方法であろう。とはいっても、根源学的方法もユダヤ的方法も余程の学問的レベルに達していないと実効性は期待できない。したがって、一般庶民の私たちの取りうる道は、理性的な論理展開ではなく、呪力つまり「霊的な力」に頼るしかない。
特定の人・物・現象などにやどる「霊的な力」に頼るのである。私は、岡本太郎はそう言っているのだと思う。


第7節 天地から引き離されないために!

『 石は大地のよりどころ、木は天空に向かっての標識である。天と地は無限の両極から人間の運命をかかえ、そして引き離す。木、石はそれに対応する呪術をはらんでいるのだ。』
第2節に述べたように、岡本太郎は「美の呪力」の中で石のもつ呪力についてこのように書いている。木は天におわします父なる神が地上に降りてくる道である。父なる神の通う
通路である。一方大地は、母なる神のおわしますところ。私たちは父なる神と母なる神にいだかれて、この命を生きている。父なる神と母なる神は無限のかなたから私たち人間の運命をかかえているのである。もし、私たちが父なる神と母なる神の意に反し、傍若無人に振る舞うならば、私たちは両方の神から見放され、不幸な人生を送らなければならない。そうなるかならないかは私たち人間次第ではあるが、木と石はそれに対応する呪術をはらんでいるのだ。岡本太郎はこう言っているのだが、父なる神と母なる神の学問的なきっちりした話は後回しにして、まずは、私たちはどのような傍若無人な振る舞いをすれば、天地から引き離されることになるのか、その点について私の考えを申し述べてみたい。

森岡正博の「ディープエコロジーの環境哲学-その意義と限界」という素晴らしい論文がある。その中に、岡本太郎の「美の呪力」(新潮社)と関係のある部分が少なくないので、その関係部分をピックアップして、「呪力」についての参考資料とすることとしたい。岡本太郎は、「美の呪力」の中で、・・・『 石は大地のよりどころ、木は天空に向かっての標識である。天と地は無限の両極から人間の運命をかかえ、そして引き離す。木、石はそれに対応する呪術をはらんでいるのだ。』・・・と言っているが、私たちは、地球上のすべての存在もそうだが、天空と大地にいだかれて存在している。しかし、私たち人間が「天地」の意思に逆らって、傍若無人の生き方をするとき、「天地」は私たちを見放し、私たちは「天地」から引き離されてしまう。岡本太郎はそう言っているのだ。以下に記す「ディープエコロジーの環境哲学-その意義と限界」という論文の要約は、かかる観点から岡本太郎のいう「呪力」に焦点を当てているので、その他の大事な部分が多少抜けているかもしれない。したがって、「ディープエコロジーの環境哲学-その意義と限界」という論文の全体を知るには、以下の要約だけでなく、次のページを是非読んでいただきたい。
http://www.lifestudies.org/jp/deep02.htm

それでは、岡本太郎の「美の呪力」(新潮社)と関係のある部分をピックアップすることにしよう。
項目は、 1、ライフスタイルの根本的な見直しが必要。  2、地球環境問題を生み出した現代文明に対する思想的な反省が必要。  3、 近代哲学批判、近代文明批判が必要。 4、 意識改革が必要。  5、 戦うという姿勢が必要。  6、直観と経験を重視する姿勢が必要。  7、 あらゆる「支配」と戦うことが必要。  8、 近代科学の弱点に気がつくことが必要。  9、 ディープエコロジーのために直接行動に立ち上がろう!  10、 ニューエイジ運動に立ち上がろう!   11、 宗教に大いなる関心を持つことが必要。  12、「生と文化」の問題に大いなる関心を持つことが必要。  13、地域コミュニティでの実践活動が必要。 14、 少数民族の生活文化に学ぶことが必要。  15、女性の活躍を応援することが必要。  16、霊的なものの正しい認識が必要。  17、新たな創作神話を読むことが必要。 18、 名著といわれる本を少しでも読むことが必要だ。  19、「女性礼賛」が必要。 20、 男は女房に対する自己反省が必要だ。  21、 貧困問題について考えることが必要。・・・であり、それぞれの項目に対する説明は、次をクリックしてください。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/youyakude.pdf
以上、1〜21まで、私たち各人が振る舞うべき事柄を書いた。どんな人でも、傍若無人にこれらの事柄と逆のことをやっていると、遂には天地から見放されて、最後は不幸な人生を送らなければならない。岡本太郎はそういっているのだと思う。ゆめゆめたゆまざる努力を忘れたもうな!


第11節 「オルメカの巨石人頭像」の呪力について

『 一つここに驚くべき事実がある。エール大学のマイケル・コー教授の最近の発表によると、このオメルカの石の頭は最初から土に埋めてあったものらしい。粘土できちんと土台を作って据え、土をかぶせてあった。メキシコ南部サン・ロレンスで、雨のために偶然山が崩れ、そこに石造がわずかに露呈してきたのだ。これをヒントを得て、周辺の何でもない山肌を電波探知器で調べたら、このような石彫がまだ百あまりも埋もれていることが判った。今まで、土地の者によって掘り出されていたものだけで、謎に包まれていたこの巨石の顔は、いよいよ不可思議な神秘の相をあらわしてきた訳だ。 顔を刻み、神格にしたのち、それをことごとく地面に埋めてしまう。これは一体どういうことなのだろう。大地に対する呪術なのか。それにしても、現象的には無になってしまうのだ。ただ無存在で「ある」、「なる」、ということよりもさらに激しい、積極的な還元である。何たる謎。』
第2節に述べたように、岡本太郎は「美の呪力」の中で石のもつ呪力についてこのように書いている。彼が何を言いたいのか、最後のフレーズを私なりに推測すると、

「 顔を刻み、神格にしたのち、それをことごとく地面に埋めてしまう。これは一体どういうことなのだろう。大地に対する呪術なのか。それにしても、現象的には無になってしまうのだ。ただ形而上学的に存在する「ある」「なる」ということよりも、さらに激しい積極的な「美の根源」への「気づき(接近)」である。何たる謎。」・・・となる。

地中に埋蔵された「オルメカの巨石人頭像」について、岡本太郎はこのように、私たちが通常「神の力」よりもさらに強力な「霊の力」を発揮していたのではないかと直観している。このような岡本太郎の直観を私たちはどのように受け止めれば良いのか、私にはよく判らない。しかし、日本の縄文土器の埋葬の謎と重ねあわせて考えるとき、「オルメカの巨石人頭像埋蔵の謎」を解く鍵があるように思われる。

小林達雄はその著書「縄文時代の世界」(1996年7月、朝日新聞社)の中で次のように言っている。すなわち、

『縄文時代の土偶は、縄文人の精神世界の中で生み出されたものだ。』

『土偶は縄文人の神さまではもちろんなく、単なる縄文人の写しでも、ましてやお遊びや話し相手の玩具でもなかった。』

『実は縄文人自身も、土偶の正体、つまりその人相・体格を正確にしっていたわけではな
かったのである。土偶とは縄文人を取り囲む自然物や、縄文人自らが作り出したさまざまな物の中にも、かたちとして見いだすことのできない存在なのであった。それは、現実のかたちを超え、いわば神にも似た力そのものであり、不可視の精霊のイメージであった。縄文人の頭の中のまだ見ぬイメージが、ややもすれば自己の姿に近づきがちになるのをあえて振り払いながら表現したのが、なんとも曖昧模糊とした最初の土偶ではないか。つまり、精霊の顔をまともに表現するなど、あまりにも畏れ多いことでもあったのであろう。
当初の土偶の伸張が、5〜6cmから10cmどまりであるのは、掌(てのひら)の中に収められて祈られたり、願いをかけられたりするものであったせいとも考えられる。つまり、土偶はその姿を白日の下にさらしたり、祭壇などに安置したりするものではなく、閉じられた掌の中の闇の中でこそ力を発揮したと考えられる。
また土偶の容姿はもともと縄文人の目には見えなかったのであるから、その詳細なかたちに本質的な意味があるのではなかった。それは、あくまでも縄文人の意識の中で確信された精霊であり、それが仮の姿に身をやつして縄文世界に現れたものであった、と理解される。』・・・と。

私には、「オルメカの巨石人頭像」も、 その姿を白日の下にさらしたり、祭壇などに安置したりするものではなく、閉じられた闇の中でこそ力を発揮したと思えてならない。如何なものであろうか。上述したように、「オルメカの巨石人頭像」は人間のようで人間ではない。神のようであって神ではない。不思議な存在である。これを白日の下にさらすのではなく地中の闇の中に埋蔵した。そして、その場所で「生け贄」を捧げる供犠(くぎ)が行われたと言われている。そのときどのような呪術が行われたか定かでないが、私が思うに、時には豊穣の「祈り」であったであろうし、時には敵に対する「のろい」であったかもしれない。

日本人は「無」が好きだ。否、日本人だけではない。東洋の特質だ。西洋の思惟では無が有より軽んぜられたことは、「無」がBeingに対して常にNon-beingとしかいわれない、という言語的な事実にその証拠を見出す事が出来る。一方、東洋では無を強調し、有中心の非-有(Non-being)、を超えた意味合いを含ませた。岡本太郎の思想の底流にはこのような「無」の思想が息づいているように思われる。「オルメカの巨石人頭像」とは何ぞや?・・・「無」! 岡本太郎はそう言っているようだ。



第3章 美とは何か?

第2節 両頭截断ということについて 

私の電子書籍「祈りの科学」シリーズ(4)でもいったが、ものごとには何ごとも両面がある。光があれば陰もあるし、物があれば「モノ」がある。「モノ」とは心のこもった物のことである。物とは単なる物質のことだ。
 私は「両頭截断(りょうとうせつだん)」とよく言っているが,これはそういうものごとのには必ず両面があるので,それにこだわっていてはいけないということを言っている。「あなたは善人ですか?・・・そうですねえ。善人と言えば善人だし,悪人と言えば悪人ですね。善人でもないし悪人でもない。ああ,やっぱり私は善人です。」・・・という訳だ。哲学的には二元論というが,そういう二元論を超えた世界,つまり一元論的認識の世界,それが陰陽の世界である。両頭を截断した,つまり相対的な認識を超えた絶対的な認識(一元論的認識)の世界である。私たちは陰陽の世界を生きているし,またそのことを日頃から十分認識しておく必要がある。

 私は「両頭倶截断一剣器倚天寒(両頭ともに截断して一剣天によってすさまじ)」という禅語を略して「両頭截断」といっているのだが、その意味するところはきわめて奥が深い。摩多羅神を考える場合にも、エロス神を考える場合にも、少なくともこういう一元論的認識の重要性だけでも理解していないとダメだと思うので、ここで厳密を期しておきたい。

 この禅語は『槐安国語』(かいあんこくご)に出てくる。『槐安国語』は燈国師が書いた『大燈録』に、後年白隠が評唱を加えたものである。禅書も数多いが、その中でもっとも目につくものは、道元禅師の『正法眼蔵』と『槐安国語』といってよいと思う。両書はいずれも難解な本である。前者についてはすでに多数の学者がその研究の成績を発表して
いる。しかし、『槐安国語』についてはほとんど研究らしい研究はない。そうだけれど、大燈国師が胸中の薀蓄(うんちく)を披瀝したところへ、白隠禅師の悟りを加えたものであるから、この本は日本の禅の極限に達したものといってよいだろう。
この禅語については、 松原泰道がその著「禅語百選」(昭和四十七年十二月、詳伝社)で詳しく説明しているので、それをここに紹介しておく。すなわち、
『 両頭倶截断一剣器倚天寒(両頭ともに截断して一剣天によってすさまじ)
両頭というのは、相対的な認識方法をいいます。相対的認識が成り立つのには、少なくとも二つのものの対立と比較が必要です。つまり両頭です。たとえば、善を考えるときは、悪を対抗馬に立てないとはっきりしません。その差なり段落の感覚が認識となります。
 さらに、その差別を的確にするには、それに相対するものを立てなければなりません。之が三段論法推理の基本となります。その関係は、相対的というよりも、三対的で、きわめて複雑です。知識が進むにつれてますます複雑になります。その結果、とかく概念的となります。また、比較による知識ですから、二者択一の場合に迷いを生じます。インテリが判断に決断が下せないのもその例でしょう。なお、恐ろしいことは、比較というところに闘争心が芽ばえることです。この行きづまりを打開する認識方法と態度が、禅的思索です。まず相対的知識の欠点が相対的なところにある以上、この認識方法と態度とを捨てなければなりません。それを「空(くう)ずる」といいます。ときには「殺しつくせ」「死にきれ」と手きびしく申します。肉体を消すことではありません。相対的認識や観念を殺しつくし、なくして心を整地することです。
 相対的知識を殺しつくすのは絶対的知識です。しかし、相対に対する絶対なら、やはり相対関係にすぎません。たとえば、「私が花を見る」のは、私と花と相対して花の認識が生まれ、その花の色や色香(いろか)や美醜は、またそれに対するものが必要になります。どこまでも相対知です。
 次に、私は外の花を見ない、唯一絶対として私が花を見ると、一応は絶対値に立ったようですが、相対に対する絶対値で、やはり相対的関係が残っています。「私」が「花」を見るという我と花とが対しあっています。純粋絶対知とは、私が花を見るのではなく、花そのままを見ることです。私が花そのものになって見るより見方のないことを知るのです。
 これを一段論法といいます。その名付け親は、明治後期の理学博士で、禅の真髄をつかんだ近重真澄(ちかしげますみ)です。禅的さとりを得た人たちは、必ず従来とは、違った見え方がしてきたと喜びを語ります。それは「ある立場から、規定づけられた見方を脱した」ということでしょう。道歌(どうか。仏教などの趣旨をよんだ歌)の「月も月、花
は昔の花ながら、見るものになりにけるかな」が、一段論法の認識方法と、その結果を
歌っています。また、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)が、無情を感じて法然上人の下で出家して蓮生坊(れんしょうぼう)と呼びました。彼の歌と伝えられるものに「山は山、道も昔に変わらねど、変わりはてたるわが心かな」にも、それが感じられます。両頭的な相対的認識を、明剣にたとえた一段論法の刀で、バッサリと断ち切る必要を説くのがこの語です。相対的認識を解体した空の境地です。』・・・と。


直観を働かせるには、それなりの厳しい体験が必要だ。修行僧は日常厳しい修行に明け暮れ、それが実ると悟りが開け、直観が働くようになる。そうするとこの禅語にあるように、両頭が截断されて、絶対認識ができるようになる。私たちは、一般的には、死ぬか生きるかというような厳しい体験をする訳ではないので、なかなか直観がはたらくレベルに到達することが困難である。しかしながら、ものごとにはすべからく両面があることを理解し、まずは反対物に注目しなければならない。自分と反対の意見をもっている人の言うことにも常日頃から耳を傾けなければならない。ともかく、ものごとの両面を見ることの癖をつけなければならない。それには、岡本太郎の「美の呪力」を読んで、その中で取り上げられている石造や絵画のどれかを真剣に勉強することだ。実際に現地に出かけることは一般には難しいので、いろいろとネットで調べるなり、図書館で関係の図書を読むことはできるだろう。その際、岡本太郎の「美の呪力」はまたとない手引書になるはずだ。


第3節 真の美を理解するには

プラトンの「饗宴(きょうえん)」という歴史的とでもいうべき名著がある。岩波文庫から文庫本が出ているので読んだ方も少なくないだろう。その中の「エロス神」に関する真髄部分を紹介する。その真髄部分は摩多羅神についても同じことがいえる。つまり、相対的認識が解体されているのである。
『 エロスは偉大な神でかつ美しき者に対する愛などと考えてはならない。そんな考えに立っていると、エロスは美しくもなければ善くもないことになる。したがって、美しくもないものは必然的に醜いとか、善くないものもまた同様に悪いとかいう風に考えてはいけない。』
プラトンはこのように言っているのだが、プラトンはまさに禅僧の言いそうなことを言っ
ていますね。まさに両頭が截断されている。上述したように、 ものごとにはすべからく両面があることを理解し、まずは反対物に注目しなければならないのである。その際、岡本太郎の「美の呪力」はまたとない手引書になるはずである。この点について、 鶴岡真弓が、「美の呪力」の解説の中で、この点につき的確な解説をしているので、ここに紹介しておきたい。
『 ユーラシアの極西の「ケルト」から、極東の「縄文」までの世界を、太郎は踏破し、透視していた。「美の呪力」を読むことは、「岡本太郎」による「世界美術館」を歩くことである。その美術館は、おそらく世界一たくさんの展示室とテーマをもち、世界一陰影に満ち、世界一わたくしたちに不思議な希望を与え続けてくれる場所である。そう、マルロの「空想の美術館」をも凌ぐだろう、またとない「呪力の美術館」なのである。』
マルロの「空想の美術館」は、次のホームページに詳しく解説してあるので、是非、それをご覧戴きたい。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/kohjoh4.htm

さて、岡本太郎は、「美の呪力」の中で、上述してきたように、イヌクシュクの石像のもつ呪力について論じ、「磔(はりつけ)のキリスト像」と繋げながら「血」のもつ呪力について論じている。そして、それらを出発点として、ゴダールの名作「ウィーク・エンド」という映画のもつ呪力、アステカの人身供犠を描いた絵画のもつ呪力を論じていく。そして、羅刹(らせつ)の女ジェマティーの図像、曼荼羅(まんだら)、ゴヤの「カプリチョス」、ピカソの「ゲルニカ」、各種戦争画、各種仮面、炎の像と絵画、夜の画家ゴッホの作品、ビザンチンの夜に関わる美術品などももつ呪力について、鋭い眼を向けながら、最後にケルトの文様を論じている。この最後のケルトの文様については、鶴岡真弓が次のように解説しているので、それを紹介して筆を置くことにする。
『 「美の呪力」の最後を飾る第11章「宇宙を彩る・・・綾とり・組紐文(くみひももん)の呪術に、ヨーロッパ極西の国アイルランドの「ケルト」の文様が語られる。中世アイルランドのケルト系修道院に立つ「石の十字架」や、福音書写本「ケルズの書」に修道士が描いた呪文のようなケルトの「組紐文」。中心というものがない。無限に伸び、くぐり抜けて広がる。世界を流動の相で捉える人びとの造形だ。・・・自分たちを超えた運命がいつでもすれ違いながら流れている。(中略)岡本太郎曰く。「私にいちばん問題を投げかけてくる美は、他の大陸を別にすれば、ヨーロッパでいちばん古い、ケルトの文化なんです。」』

なお、このブログは、岡本太郎の「美の呪力」を土台として私の小論文の抜粋である。小論文の全部を掲載するとあまりにも長くなりすぎるので、下記の部分はブログから省いた。
「第2章第3節イヌクシュクの石」 「第2章第4節石の信仰」 「第2章第5節重力の魔」 「第2章第8節プラトンのコーラ」 「第2章第9節石の囲い「炉」と柱の聖性」 「第2章第10節謎のオルメカ文明」 「第2章第12節 グリュウーネヴァルトの磔(はりつけ)のキリスト像」 「第3章 第1節 摩多羅神について」

したがって、小論文の全体をご覧戴くには、次のPDFファイルをご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyuryoku.pdf




« 天地から見放されないために! | トップページ | 御幣と魔除け »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1117507/48584856

この記事へのトラックバック一覧です: 呪力について(抜粋):

« 天地から見放されないために! | トップページ | 御幣と魔除け »