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2012年11月 9日 (金)

映画「ニーチェの馬」について

映画「ニーチェの馬」について

日本でも「ニーチェの馬」が今年(2012年)の2月に公開され、その後大きな反響を呼んでいる。その映画は次のとおりである。
初老の男(デルジ・ヤーノシュ)とその娘(ボーク・エリカ)、そして年老いた馬が暮らす、人里離れた荒野の中の一軒家。唯一の収入源は荷馬車だった。 父は荷馬車仕事を、娘は家事を行なって日々を過ごす。暮らしぶりは貧しく、毎日は限りなく単調で夢も希望のない絶望的な生活だ。 日常生活には、時おり訪れる人々がいる以外、これといった事件は起こらない。 熟練の動作と季節の変化、一日の時間によってリズムと決ま りきった仕事が与えられるが、長期にわたる不吉な嵐によってそのリズムが突然乱れ始めて、生きることの重みが残酷に彼らにのしかかる。ニーチェのいう「重力魔」の仕業なのであろう。突然井戸水がかれてしまい、ついに男 は、娘と馬を連れてこの家を出て行くことを決意する。だが、2人と1頭の道のりは、吹きすさぶ強烈な風のために過酷なもので、先に進めなくなって、結局は家に戻らざるを得なく、絶望のまま荒野の中の一軒家に戻る。重力魔の仕業なのであろう、馬は死に向かい、ランプや暖房のための火もおこせなくなる。夜は長くつづいて夜の明ける気配はまったくない。世界の終わりが来たかのようだ。父と娘、そして「ニーチェの馬」はこのまま死を待つばかりだ。

このあと、私の見解を申し上げたいが、その前に、「映画.com」というホームページに高橋順一の講義を紹介しているので、それを掲載しておきたい。
http://eiga.com/news/20120307/9/
ハンガリーの鬼才タル・ベーラ監督が、「神は死んだ」の言葉で知られるドイツの哲学者ニーチェの逸話からインスピレーションを得て製作した最新作「ニーチェの馬」。本作公開を記念し2012年3月7日、比較思想史家で現在早稲田大学で教鞭をとる高橋順一教授が「『ニーチェの馬』を深く読み解くヒント」と題した観客向け講義を、都内の劇場で行った。
タル・ベーラ監督が、自身にとって最後の作品だと述べる本作は、疲れ果てた馬の首をかき抱き、そのまま発狂したと伝えられるニーチェのエピソードをもとに、馬のその後を追い、荒野に暮らす貧しい父娘の最期の6日間を描き出す。ジム・ジャームッシュ、ガス・バン・サントをはじめとした世界の映画人がタル・ベーラ作品から多大な影響を受けたことを公言しているが、日本においても音楽家の細野晴臣氏、作家の堀江敏幸氏らが本作にコメントを寄せているほか、俳優の西島秀俊が絶賛し、画家の横尾忠則氏がツイッターで感想を投稿するなど各方面で反響を呼んでいる。
高 橋教授は、ニーチェの後期の主著「ツァラトゥストラはこう語った」の重要なキーワードの一つである「神は死んだ」という言葉は「世界をあらしめる決定的な 要因が失われてしまった世界。偶然性や不規則性に支配されてしまい、何事もが決定不可能で、何一つとして確定的なことがあり得ない世界」だと説明。そして 「17世紀以降の近代社会においては、この世界を決定する最大の要因として神に当たる地位を占めていたのは人間。『神の死』というのは、神と共に人間も否 定された世界だと思う」と持論を述べる。
本作劇中では、いつ止むとも知れない風が吹き荒れ、世界の終末を感じさせる不穏な雰囲気を演出し ている。高橋教授は、この“風”について触れ、ドイツの思想家バルター・ベンヤミンが自殺後残した「歴史の進歩の強風が絶えず我々の世界に吹いている。こ の世界に救済をもたらす天使が強風によって先へ先へと送りだされ、世界には廃墟だけが残る」という遺稿からの抜粋を紹介し、ニーチェの後期思想のもうひと つのキーワードで、19世紀の社会への批判として出された「永遠回帰」と反復の関係を解説。「『神の死』と『永遠回帰』の連関を考えていくことで、タル・ベーラ監督のメッセージのひとつが見えてくるのではないか、また3月11日以後を生きている我々にとっても重要な問題として受け止められなければいけない」と締めくくった。

それでは、映画「ニーチェの馬」の予告編を紹介しておく。
http://www.youtube.com/watch?v=tmhKEuxssgw&feature=player_embedded#!

また、この映画「ニーチェの馬」の公式サイト
http://bitters.co.jp/uma/
・・・に著名人の感想が掲載されているので、それを是非ご覧戴きたい。この映画「ニーチェの馬」によって人それぞれ何かを感じれば言い訳で、余分なことは言う必要がないのかもしれないが、著名人のみならず多くの人の受け止め方は、ちょっとピントがぼけているように思われる。この状況では、けっして「さまよえるニーチェの亡霊」は浮かばれない。だから、私はどうしても言わねばならないのである。

ニーイェの主著「ツァラトゥストラはこう語った」に驢馬が登場するが、これは神の比喩である。驢馬は「さよう、さよう」というだけで、自らは何も人間の生き方なり希望を指し示す訳ではない。神もそうであって、すべて人間の働きのよる。人間が神に働きかければ神は、「さよう、さよう」というだけである。キャスチンブボートは人間が握っているのである。ニーチェの時代、その人間、とりわけキリスト教会の人びとが堕落していて、そのために、人びとはやる気がなくてニヒリズムに陥っていた。だから、ニーチェは神を殺さなければならず、「神は死んだ!」と宣言したのである。
私には、「ニーチェの馬」は、「ツァラトゥストラはこう語った」に登場する驢馬にイメージがだぶる。神の比喩である。「ニーチェの馬」は、「重力魔」に打ちのめされて絶望に陥った親子の影響で、死を待つばかりの日が続く。多分、この映画の終わった直後に、「ニーチェの馬」すなわち「神」は死に、暗黒の世界がやってくるのである。そうなれば、ニーチェならずとも、多くの人は発狂せざるを得ない。

しかし、ここが肝要なのだが、ニーチェほど神に対する憧れを持っていた人はいないのであって、そのことを知っておれば、この映画「ニーチェの馬」を見て人びとは絶望の谷に落ちなくてすむ。

今ドイツでは、「ドイツ民族固有の信仰」を重視し、さらにユダヤとローマの影響から解放されることが重要であるとする・・・「キリスト教のゲルマン化」の動きが出てきているようである。ゲルマンの神的世界は、「理性に対し感情を、精神に対し魂を」という非合理主義であるといえるが、ドイツ的キリスト教こそ本物のキリスト教であって、故に「ゲルマンの神々の教えに回帰しよう」という訳だ。ニーチェの時代とはまったく異なり、大いに希望があるではないか。

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