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2012年10月12日 (金)

私の電子書籍「さまよえるニーチェの亡霊」第8章

第8章 ニーチェの哲学を超えた新しい哲学の方向性

 今、日本もそうだが、世界は「人間が生きる最高の価値観」を失ってニヒリズムに陥っている。そのニヒリズムから脱却して私たち人間が生き生きと生きていくためには、何をなすべきか? それを一言で言えば、ニーチェの考えを中心として、ハイデガーやホワイトヘッドらの哲学のいいところ取りをして、ニーチェの哲学を超えた新しい哲学の方向を見定めて、具体的な運動を展開することだ。そういった新しい哲学、すなわちニーチェとハイデガーとホワイトヘッドの統一哲学が形而上学的に誕生するにはかなりの年月がかかるかと思われる。現在の状況からして、それを待っているわけにはいかないというのが私の認識であり、したがって、私は、せめてその方向性を見定めて、具体的な運度を展開すべきだと申し上げている。
 私は前章で『 人生いろいろ、神もいろいろだが、哲学の問題としては、神をアポロン的な神とディオニュソス的な神とに峻別しなければならない。アポロン的な力とディオニュソス的な力の統一がパラドックス論理によってなされなければならないのである。エロスについても合理と非合理の統一がなされなければならない。ニーチェはキリスト教の神と戦うことに一生を捧げたので、その必要性を認識しながらも、パラドックス論理を使うに至らなかったと言い得るかもしれない。必然的な自己矛盾を克服できなかったのである。私は、今後、ニーチェの神に対する考えを中心として、ハイデガーやホワイトヘッドらの良いところ取りをして新しい21世紀の哲学を作ることができると思う。』・・・と申し上げた。

 ここまで私は、ディオニュソス=シヴァとして記述してきたが、実は、厳密に言えば、両者の間に異なる点がある。これ以降、私は、ディオニュソスとシヴァを峻別して、ディオニュソスをシヴァと言い換える。シヴァはまさに東洋的で、ディオニュソスの源流に存在する。西洋的なものと東洋的なものを統一した哲学を考える場合、少しは西洋の色の染まったディオニュソスよりも西洋の色のまったく染まっていないシヴァを対象にすべきだと思う。アポロンは西洋であり、シヴァは東洋である。シヴァは自然の神であり、シヴァの思想は都市に徹底的に反対してきた。その自然が今まさに大きくクローズアップされてきている。
 私は「祈り」の科学シリーズ(2012年1月、ジパング・C・S、電子出版)で述べたように、ラブロックの「ガイヤ説」は、 宇宙の波動に対する認識が欠けているという点で未熟である。やはり生物学者としての限界があったのかもしれない。天には父がいるのである。母と父がいないと子供という宝物は生まれてこないのだ。私は母と父のどちらが大事かと問うているのではない。どちらも大事。一体不可分のものである。したがって、エロスの神は、西洋的なアポロンと東洋的なシヴァが統合されなければならない。シヴァの本質は自然を重視するところにある。地球の「エコ」を重視するという点で、ラブロックの「ガイヤ説」は正しい。 ガイヤ(地球)は生きているというのはその通りである。 ガイヤは母であるというのもその通りである。私自身は、今後、「エコ」から宇宙的な視点「ジオ」に軸足を移していこうと思っているが、「エコ」に熱心な人の応援はしていきたい。「エコ」は「ジオ」の一部であるから・・・。

 前章で、私は、科学の本質についてのハイデガーの認識を紹介しながら、神の投企を引き受けてそれを感じることが容易なのは自然であって、技術ではない。だから、自然豊かな田舎を神の住まうところと考えてよい。都市ではない。という趣旨のことを申し上げた。これから21世紀において、自然の哲学はきわめてますます大事になってくる。

第1節 「力への意志」
 私は、この章の冒頭で、『シヴァは自然の神であり、シヴァの思想は都市に徹底的に反対してきた。その自然が今まさに大きくクローズアップされてきている。』・・・と申し上げたが、実は、都市というものがくせ者である。都市哲学というようなものは、私は寡聞にして聞いたことがないが、今後、シヴァの思想を取り入れ、さらにはハイデガーの哲学にもとづいて都市哲学を構築しなければならないのかもしれない。都市は、アポロン的なものの象徴であり技術である、と考えるべきかもしれない。だとすると、自然とか神とはおおよそかけ離れた存在であり、人間の傍若無人ぶりの発揮される場所ということになる。私は、前章で、『 神さまの方が何かの思いがあって人間に働きかけていると申し上げ、これが「神の投企」ということである。ざっくり言ってしまえば、「神の贈与」、「神の恵み」と言ってもいい。その方が判りよい。』と申し上げましたが、都市には「贈与」がない。まったくない訳ではないが、非情に希薄である。都市の本質はそこにある。
 戦後、日本の都市化は急速に進み、それが高度成長を支えてきた。過疎対策が講じてこられなかった訳ではないが、成功せず、未だに過疎化は進んでいる。都市は膨張を続けている。私はアポロン的なものの究極の姿がこれであると思う。今ならまだ間に合う。一日も早く都市化に歯止めをかけ、田舎の再生を図らなければならない。そのことが前提にないと、ニーチェのいう「力への意志」の働きようがない。それはどういうことか?
 先ほど私は、ニーチェの「力への意志」について、『 私たち人間は、自己超克をモットーとして、自分自身の階段を高みに向かって、一歩一歩登っていくことだ。「重力の魔」に何度も何度も負けるかもしれないが、それにもめげず・・・。』と申し上げたが、人間の傍若無人な愚行が横行する世の中には、「力への意志」は働かない。「重力の魔」だけが働いてしまうのである。神というものは、人間がどんな悪いことをやっていても人間を助けてくれる、というような存在ではない。神の恵み、すなわち神の贈与に対して、感謝しながら、「祈り」も捧げ、努力していると、神の働きで良い方向に動いていくということなのである。神の贈与が送り届けられるような世の中である、というのが「力への意志」が働く大前提にあるということを忘れてはならない。国家の責任は極めて大きい。

 第6章で申し上げたが、「力への意志」というものが、つねに念頭においておかなければならない、「 人間が生きていく上での基本的な条件である」ことを再確認しておきたい。
 まず一つは、まず最高の賢者は、ニーチェのような堅固な意志を以て、「力への意志」を実行することだ。やるべきことはいろいろあるとは思うが、もっとも象徴的に言えば、シヴァの神の復活を図ることだ。アポロン的な神も含めて、さまざまな神を祀ることだ。それがニーチェの悲願だったと思う。これをかなえることによって、ニーチェの魂は天国に旅立つことができる。ニーチェの魂は浮かばれるのだ!
 次に、二つ目は、私たち人間は、自己超克をモットーとして、自分自身の階段を高みに向かって、一歩一歩登っていくことだ。「重力の魔」に何度も何度も負けるかもしれないが、それにもめげず・・・。その際に大事なことは「祈り」だ。自分自身の神を捜すことだ。アポロン的な神でも良いしシヴァ的な神でも良い。日本は神々の国だから、自分の好きな神は容易に見つかるだろう。
 最後に三つ目であるが、それは最高の賢者と民衆とのコミュニケーションである。

第2節 技術と自然

 前章で、私は、『 ハイデガーは何を言いたいかというと、 アレテウエン[覆いを取り除いて真相を露呈させること]の一様式であり、そこに神の投企が「抱握」されなければならないのであるが、技術の歴史を見ると、存在の歴史とまったく同じであって、神の投企は見えなくなってしまうようになってきている。私は、ハイデガーは、技術こそ人間の思い上がりの象徴であって、これこそデカルトに端を発する西洋文明の間違いだと主張しているのだと思う。 』・・・と述べた。しかし、これからは今までとは逆に、技術が進めば進むほど神が近く感じられるようにならなければならない。

(1) 故郷(自然)の再認識
 前章で、私は、『神は、歴史的に見ていろいろは国というか場所でいろいろな場面場面というか時に、人びとに感じられてきたというか現れてきた。しかし、そういう神の故郷というのはどういうところなのか? すなわち、神は時空を超えて現れるのだが、そもそも神の故郷とはどこなのか? そういう意味で故郷という言葉が使われており、必ずしも私たちが日頃使っているような意味での故郷ではない。しかし、私は、ハイデガーのいう故郷を私たちの日頃使っている故郷というか田舎をイメージしている。
 神の投企は、時空を超えてある。しかし、人間はなかなかそれを受け止めれない。技術的な世界(都会)よりも、自然的な世界(田舎)の方が受け止めやすい。ホワイトヘッドの言葉でいえば、「抱握」(フィーリング)しやすい。故に、私は、故郷再生、田舎の再生に旗を振っているのだが、その心は「自然」にある。自然は神の投企をそのまま受け止め、私たちにもそれが容易に「抱握」(感じる)ことができる。技術は神の投企を隠してしまって私たちには容易に「抱握」(感じる)ことができなくする。そこが大問題なのである。』・・・と申し上げた。

 先に述べたように、「投企」や「抱握」は神からの贈与である。中沢新一はその著「日本の大転換」で、脱電発や農業の再生という問題は、今こそ取り組むべき緊急課題であるとして、贈与論を展開した。また、私は、「祈り」の科学シリーズ6(20012年1月、ジパング・C・S、電子出版)で、贈与経済の貨幣・「地域通貨」の必要性を書いた。その要点は、次のとおりである。

 日本復興を図る上で「地域通貨」は避けて通れない問題である。市場経済をなくすことができない以上、贈与経済とのハイブリッド経済を考えねばならない。世界経済の行く末及び世界構造のあり方を考えたとき、どうしても地域通貨が浮かび上がってこざるを得ない。地域通貨の問題は、現下の緊急、かつ、重要な国内問題である。
 「農」は国の基本であり、地域の基本である。「農」を基本とした地域の自立的発展を図らない限り、地域コミュニティは崩壊をつづけ、やがて日本は崩壊するに違いない。これからは心の時代である。家族農業も大事にし、「協和」を旗印に、輝かしい地域コミュニティと日本を創っていかなければならないが、それは、「祈りの科学」シリーズ(6)「地域通貨」に書いた実践論を具体的に検討していけば、充分可能である。ただし、「地域通貨」の哲学については、中沢新一の贈与論が私の哲学の足らざるところを補ってくれているので、その点だけは申し上げておく。私の「地域通貨」の哲学は、主として貨幣論から展開したものであって、その背景にある贈与論を論じてはない。モースの贈与論を発展させ、現代の経済的社会的な諸問題に応えうる新たな贈与論が待ち望まれていたが、2011年8月に中沢新一の「日本の大転換」(集英社)が出た。これはまさに現代の贈与論であって、主として原発問題を意識したものであるが、農業などの純粋贈与や地域通貨にも適用できる一般理論である。中沢新一のこの新たな贈与論によって、地域通貨の哲学にもしっかりした基盤ができたように思う。

 市場経済は競争が原理である。その原理にしたがって農業のあり方が考えられており、「地産地消」などと言われているが、これは大規模農業を目指すものであって、百姓の行う「農」、本来の「農」とは論理が逆である。地域の自立を目指すのであれば、「地産地消」という市場原理で競争に明け暮れる生産者の論理でなく、逆に、地域で消費するものについては地域で作れという「地消地産」でなければならないのである。
 現在の農業は間違っている。本来の「農」に戻らなければならない。農家は本来の百姓に戻らなければならない。そうでないと資本の力によって地域コミュニティは完全に崩壊してしまう。現在その危機に直面している。


(2)自然の神と技術の神との同盟(「モノとの同盟」)
シヴァ教はディオニュソス教と同じようにエロスの宗教ではあるが、実は、シヴァ教は自然の宗教でもある。ここのところがきわめて大事なところだ。第3章では、シヴァ教の説明はエロスに焦点を当てて説明した。ここでは自然に焦点を当ててシヴァ教の説明をしておきたい。「シヴァとディオニュソス・・・自然とエロスの宗教」(著者・アラン・ダニエル、訳者・浅野卓也と小野智司、2008年5月、講談社)では、次のように言っている。すなわち、

『 シヴァ教は本質的に自然教である。(中略)この神は、われわれ人類に、聖なる法を再び見いだすよう教え、人間の法を捨て去るよう諭すのである。』
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『 シヴァ信仰の哲学的な全容は、まだほとんど解明されていない。』
『 現代のエコロジーは、真性の倫理への回帰を目指す試みのように見えるが、いまだ人間中心主義的な発想を超えるものではない。』
『 シヴァは宇宙の支配者である。その多様な姿は、宇宙の方角を支配する神々に結びつき、それぞれの神には、生命に対する直接的な影響力と重要なシンボリズムが付与されている。』
『 この世界に生まれたものは、いつかは必ず死ぬ。したがって生の原理は時間に結びつき、最終的には死の原理に結びつけられる。創造の神は、同時に破壊の神である。生は死を育む。いかなる生命体もほかの生物の命を破壊しむさぼり食うことなしに、生き延びることはできない。それゆえシヴァは恐ろしい相貌(そうぼう)をもっている。』

『 宇宙において神々、精霊、人間のなかに顕現する原理は、動物界、植物界、鉱物界にも同じようにあらわれる。』

『 聖なる場所とはある種の扉で、そこを通過すれば、ひとつの世界からもうひとつの別の世界へ移行することもそれほど難しいことではない。この通路を通じて、幻視者は突如として他界へと目が開かれ、また他界へといたることが可能となる。特別な能力がないものでも、ひとたびそのような聖地に立てば自分が超自然的と呼ばれる何か、すなわち神々や聖霊たちの住まう神秘な世界に近づきつつあることを実感できるだろう。(中略)そうしたところに行くと、時間の制約を超えた異次元の宇宙に至るような、ただならぬ空気を感じずにはいられない。こうした場所で秘跡をさずかり。或いは死を迎えることは、とても意義のあることだとされる。そこは、「天界」に通じる門なのである。』
『 エロスは生存の原理でもあるが、消滅と死の原理でもある。何ものもエロスなしに存在しないし、またこの神を通じて、万物は存在することをやめる。かれはまさに、生と死の原理であるシヴァの本性を顕わしている。』
『 シヴァ教は、個人という存在を、ジャイナ教のように重視せず、人間の生を一時的で、かつ、集合的なものとしてしか信じない。人間の個々の生は、あらゆる存在の生と等しく、宇宙的な事物と意識と知性から選択され、宇宙的にして不可分の魂のかけらを取り巻く多様な元素が相互に結びつけられる結び目、結節点から形成される。これは、壷のなかの閉ざされた空間にたとえられるもので、そこには宇宙的な空間と変わるところはない。』
『 天界と神々は、宇宙が終息し事物と時空が無に帰するとき、存在することをやめるだろう』
『 われわれがみずからの存在の永遠性に目覚めるのは、この現在の生が持続するあいだでなければならない。進化を忘れた終わりのなき魂の不滅という倦怠を夢想しなければならない理由など、どこにもないのである。』
『 人間間科学、自然科学的心理学やエコロジーの最近の発見は、シヴァ教がつねに推奨してきたものと同じ普遍的・人間間問題へのアプローチを提示するものと考えることができる。
 われわれの時代が、キリスト教の勝利によって一度は絶滅し、「散逸した宗教体験」を再発見した先駆けとして後世に知られるということも、ありえないことではない。・・・こうしたすべての要素[無意識、神話、シンボルへの関心、プリミティブなもの、アルカイックなものへの熱望といった宗教感情のあらわれ]は、かってあったものの二番煎じではない新たなヒューマニズムの発展を告げるもののようにも感じられる。なぜなら、人類の全体知に達するために今統合されなければならないのは、何よりも東洋学者、民族学者、深層心理学者、宗教史家による諸々の探求だからである。(M・エリアーデ「悪魔と両性具有」)(中略)
 シヴァ信仰の知恵への回帰は、加速度的に破滅へと向かう人類の歩みに歯止めをかける唯一の道路となろう。
 ルネ・ゲノンによれば、「「手短かに言えば、モダンにおける本来のあり方からの逸脱以前に存在した教えを、この時代条件にふさわしいかたちで再構築すること、これがたったひとつの課題となろう。東洋は、もしそうなることを望めば西洋の救済者として現れる可能性は高い。それは、ある種の人びとが恐れるように見慣れない奇妙な概念を強引に持ち込むことではなく、西洋がすでにその意味を見失ってしまった伝統を西洋みずからが再発見する手助けとなるものである。」(「世界の終末 現代の危機」)』・・・と。

(3)技術論

 「祈りの科学」シリーズ1(2011年11月、ジパング・C・S、電子出版)で述べたように、「100匹目の猿現象」と同じ現象として,今西錦司が言うように何ごとも「起るべくして起るのである」。さらに,次のようにも述べた。すなわち、

『 ともかくネットワークの中から「100匹目の猿」が出てくれば良いのだ。「100匹目の猿」が一匹現れれば,シェルドレイクの「形態形成場」のなかで時間と空間を超えた共時現象が起って,あっという間に全体の共通感覚となる可能性があるということだ。ここに共通感覚とは中村雄二郎の「リズム論」における共通感覚である。』・・・と。


 これらは,私の「リズム人類学」を進める上での基本認識である。私の基本認識では、「リズム」によって「100匹目の猿」が出てくるし、さらには良いものは起るべくして起って,共通感覚(常識)となる。常識的にこりゃ良いと思われるものは良いのである。
それから、永い歴史の中で使われてきた伝統技術は良いのである。
 しかし、「永い歴史の中で使われてきた伝統技術」ということについては、その認識の仕方において重要な留意点がある。それは物と「モノ」との違いを明確に認識しなければならないということだ。物は現在の科学でいうところの単なる物質のことであるが、「モノ」とはそれに心が籠っていると認識される場合の言い方である。「モノ」には魂(タマ)が籠っているのだ。この魂(タマ)については、あとで章を改め詳しく説明するが、とりあえずここでは、

 現在の認識からすると「タマ」は神と言い換えてもたいした違いはないかもしれないと言っておこう。厳密ではないが、まあ当面その程度に考えておこう。その方が判り やすい。したがって、神、それはやよよろずの神ということだが、新技術論では、神々の意向を慮って(おもんばかって)、とんでもない悪魔的技術が 誕生しないよう予測と評価に関する技術をどう確立すればいいかということになるし、風土的・民族的に芽生えた国民文化の奥に隠されている部分をどう認識するかということになる。日本文化の隠された部分、それは放っておいてもみんなに見えるように自然に立ち現れて来るというものでなく、よほどの努力をして引っ張りださないと普通の人には見えないものである。ハイデッガーの言い方に習えば「立ち現れないもの」或は「立たないもの」という言い方になろうか。伝統技術の中に隠れたモノ的要素を再評価し、これからのモノ的技術をどう確立するか。悪魔的技術の阻止とモノ的技術の確立がこれからの技術上の課題としてクローズアップされる。モノ的技術については章をあらためて説明することとし、ここでは原始力発電という悪魔的技術について私見を述べておきたい。
 私は以前,ハイデガーの技術論に対抗して、「光と陰の技術」と題して私の技術論を書いた。これは政治家が身につけておかなければならない政治哲学としての技術論で、技術論としては専門的なものではなく基礎的なものである。そこでは次のように述べた。すなわち、
『 古いものというか風土的・民族的に芽生えた国民文化に関わる伝統技術についてはその保存と活用を図る、そういうも のではなかろうか。』
『 これからあるべき新技術開発とは、新しいものというか「立たせる力」により・・・今後ともよりどん欲に開発される新技術には安全の面、倫理の面から必要に応じて歯止めをかけ、逆に、古いものというか風土的・民族的に芽生えた国民文化に関わる伝統技術についてはその保存と活用を図る、そういうも のではなかろうか。前者を歯止め技術、後者を伝統技術と呼ぼう。これらはともに公共財に属するものである。』・・・・と。

 さて、まず最初に伝統技術について触れておこう。昔から,私たちのエネルギーは,「木」と「水」であった。「木」で火をおこし,家の暖房に使ったし,「水」で水車をまわし米をついた。この伝統技術の発展を図らなければならない。近年はペレットを燃やす技術も結構発達しているが,ごく最近長崎総合科学大学の坂井正康(元三菱重工業広島研究所長)が画期的な「木」のエネルギー化技術を発明された。その内容はすでに何冊かの本が出ているのでそれを見てもらいたい。ともかく凄いのだ。この技術によって,私は「間伐材発電」の旗を振っている。このような技術は「木」を使うものであり,常識的に考えて良い技術である。
 原始力発電は、そういう伝統技術ではないので、なかなか常識的判断で評価ができない。良い技術なのか悪魔的技術なのか? これからはアトムの時代だ。原始力の平和利用だといわれれば,そうかなあ〜と思ってしまう。常識とは頼りないところもあって,説得力には欠けるところがある。おばあちゃんでも持っているのが常識であって,常識にむつかしい理屈はいらない。確かに論理的ではない。しかし,常識は,中村雄二郎の「リズム論」では共通感覚というのだが、常識は正しいのである。それが私の「リズム人類学」の重要な結論のひとつだ。
 私は、上で、新技術は安全の面から必要に応じて歯止めをかける必要があると述べたが、これを原子力発電に当てはめて言えば、原始力発電というものが安全の面から歯止めをかける必要があるのかないのか、その政治的判断が必要だということである。日本の原始力発電は正力松太郎や中曽根康弘の工作によって国策になったようであるが、その頃の国会では、「安全の面から歯止めをかける必要があるのかないのか」という議論がまったくなされていないようだ。そこが根本的な問題で、私に言わせれば、その頃の政治家に政治哲学を身につけている人がいなかったということである。今もその状況は続いており、誠に残念である。
 巨大地震をどこまで想定するかが問題で、外力としては、過去に発生したものだけでなく、発生しうる最大の地震を想定する必要がある。通常は発生しないような巨大な外力を想定して原始力発電を設計するという考えがむかしも今もない。外力に関する議論がまったくないのである。 それを考えれば原始力発電の安全は到底担保できないと言わざるを得ない。原子力発電問題が重大な政治問題であるにも関わらず、国民は、そういう実態を
ほとんど知らされないまま、 原始力発電をつくりたいという勢力の巧妙な工作にまんまと騙されている。国民を平気で騙す勢力、これを悪魔的と言わずして何と言おう。また、原子力発電所の事故に伴う被害は誠に甚大で、これを悪魔的と言わずして何と言えば良いのか。
 なお、私の最も尊敬する中沢新一が2011年8月に「日本の大転換」(集英社)という本を世に出した。これは「贈与論」であるが、政治家が知っておかなければならないことという意味で、政治哲学の本と言ってよい。政治家は、是非、この本を読んでほしい。
 その結論を一言で言えば、私たちは太陽の恵み中で生きているのであり、人工の太陽をつくるなんてことはとんでもないということだ。私流に言えば、私たちは太陽の子供である。その子供が母なる太陽を人工的につくるなんてことは、やはり悪魔的と言わざるを得ないのである。
 問題は一般国民が原発問題をどう考えるかである。上述したように、 原始力発電は、いわゆる伝統技術ではないので、なかなか常識的判断で評価ができない。良い技術なのか悪魔的技術なのか? これからはアトムの時代だ。原始力の平和利用だといわれれば,そうかなあ〜と思ってしまう。常識とは頼りないところもあって,説得力には欠けるところがある。おばあちゃんでも持っているのが常識であって,常識にむつかしい理屈はいらない。確かに論理的ではない。しかし,常識は,中村雄二郎の「リズム論」では共通感覚というのだが、常識は正しいのである。それが私の「リズム人類学」の重要な結論のひとつだ。
 「常識」で考えて、原始力発電は、伝統技術からかけ離れてしまった悪魔的技術である。これはできるだけ早く廃止すべきである。逆に,「木」を使った「間伐材発電」や「水」を使った「小水力発電」は大いにその推進を図らなければならない。


第3節 田舎と都市
(1)田舎を生きる・・・贈与
 田舎を生きる人のために、人びとが食っていける仕事がなければならぬ。その基本は農業だ。農業と地域通貨については、贈与の視点に立ってその重要性を第2節の(1)に書いた。ここでは、市場原理にもとづく大規模な農業については省略し、贈与経済(地域通貨)にもとづく三ちゃん農業というか家族農業について少し述べておきたい。
 地域通貨は,閉塞感に満ちた今の世の中を打開する起爆剤になるかもしれない。私はそんな感じを持っていて,わが国でも何とか地域通貨を根付かせたいと考えている。

 「エンデの遺言」のあと,雨後のタケノコのように全国各地で地域通貨が誕生したが,私の知る限り,成功例は一つもない。その原因はうまく流通しないことにある。うまく流通しないために、経済的な力を持てない。お遊びといってはちょっと語弊があるが、まあそんなところだ。経済的な力を持つ、つまりそれが地域力の源泉になるためには、うまく流通しないとダメ。うまく流通する条件として、私は、贈与の三角形といっているのだ
が、農家と商店とNPO、この三つの間を流通しないとダメだと考えている。
 もちろん、その三角形の頂点にNPOがあり、それが地域通貨を発行するし、全体的な旗を振っていく。なお、これは当然のことだが、NPOは、運営に必要な円は寄付を受け、それで運営するのを原則とするというものでなければならない。運営に必要な円を地域通貨と交換するというようなことはゆめゆめ考えてはならない。地域通貨は、法的にも、円と交換できないものである。

 贈与の三角形でいちばん大事なのは地域農業である。地域農業は市場作物と贈与作物を作る。地域農業の担い手は、兼業農家や高齢農家,或はご主人が働きに出て行ってお母ちゃんやおじいちゃんやおばあちゃんでやっているいわゆる三ちゃん農業であっても良い。農は地域の基本であり、国の基本である。農はただ単に食料を作っているだけでなく、国の精神を作っている。

 地域は大別すれば、田舎と都市がある。 問題は都市である。都市は地域コミュニティが壊れ、ノマドが自由気ままに生きている、そういう空間である。都市の論理というのは、「身体の欲望」が支配する論理で、市場の倫理である。それは工業の論理でもあるし、人工の論理である。 それに対し、田舎の論理というのは、「生命の欲望」が支配する論理で、贈与の論理である。それは農業の論理でもあるし、自然の論理でもある。

 百姓の思考は「野生の思考」と言っても良いのではないか。 百姓の心は野生の心。 百姓の精神は「野生の精神」。こう考えると、百姓の行う「農」というものは、単に国民の食料を作るというだけでなく、国の精神を作り出しているのではないかと思えてくる。

 これからの理想とする地域づくりは、もちろん西田哲学や田辺哲学を十分理解しながらも、私は、中沢新一の「モノとの同盟」という考え方が大事であり、心を大事にしなければならないと思う。私は宇宙と響きあいと言っているのだが、感性を大事にしなければならない。都市の人々においては、田舎の自然に触れるだけでなく田舎の人々との触れ合いによって素晴らしい感性が身に付く、そうことが多いのではないか。

 田舎の地域づくりは、まず「スピリット」、これは鬼や天狗や妖怪などと言い換えてもいいのだが、そういう妖しげなものが立ち現れうるような「場所づくり」から始めなければならない。わかりやすく言えば、河童の棲む川づくりとか天狗の棲む森づくりである。トトロの棲む森づくりでもいい。子供のための「脳と身体の学習プログラム」が展開でき
る場所づくりと言っているのだが、子供たちが感性を養い身体を鍛える学習プログラムを作って、それを全国いたる田舎に展開しなければならない。私は今までこういう中沢新一のいう「スピリット」の重要性を主張してきたが、「農」の重要性というか農作業のモノ的性質については考えたことがなかった。しかし、実は、農作業というものは、「モノ的技術」であり、「野生の心」と大変深い関係があるのではないか。そこで「モノ的技術」というものについて考えてみたいのだが、まず中沢新一の言っていることを紹介しておきたい。詳しくは (中沢新一、「緑の資本論」2002年5月、集英社)を読んでいただきたい。

 中沢新一は、「モノ的技術」について次のように述べている。

 『モノ的技術は、こんにちのグローバルスタンダードであるピュシス的技術が作り出す世界とは、異質な世界を作り出す能力をひめている。』
『モノ的な技術は、ピュシス的に思考された技術とは違って、増殖や変容や分裂に、つまり一定不変で変化しない同一性を思考することができないような現実に対して適用され、真理ではなく、人間に具体的な幸福(さち)をあたえるのだ。』
『モノ的技術は人間の宗教の根源である「信」ということに、深くかかわってもいる。』と。

 「ピュシス」とは、古代ギリシャ語のようだが、かの偉大な哲学者・ハイデッガーが好んで使った哲学用語であり、ヨーロッパに端を発する近代文明を支える哲学の底流を流れる概念である。日本語では「立ち現れること」と訳されているが、自然物など存在するもの全てに本質的なものがあり、確かな真理というものがある。それは一定不変である。ひとつのものにいろんな姿があったり、いろんな性質があったりはしない。本質的なもの、真理というものはひとつしかない。こういう考え方がヨーロッパに端を発する近代文明を創(つく)っている。だから、上記の引用文中の「ピュシス的技術」とか「ピュシス的に思考された技術」とは近代技術と言い換えても良い。
 本質がどうのこうのとか真理がどうのこうのとか、そんな難しいことは別として、現実というか実際のところは、自然物など存在するもの全てが増殖又は分裂するなど変化している。それが現実であり、現実の社会では、真理がどうのこうのより、具体的な幸(さち)が大事なのである。古代の人はそう考えたのであり、「野生の思考」というか「モノ的思考」とはそういうものである。

 「モノ的技術」は「モノ的思考」にもとづく技術であり「ピュシス的技術」とは異質の
ものであるが、中沢新一は、「「モノ的技術」は現代文明とは異質の世界を作り出す力をひめている」と言っている。現代文明は、市場経済によって「心」の面で行き詰まっており、田舎の地域づくりにおいても「心」を重視しなければ今後の展望がまったく開けないところまできている。田舎こそ「モノ的技術による地域づくり」を進めなければならないのである。
 では、具体的にどうすれば良いか?そこが問題だが、結論を先に言えば、中沢新一が言っているように、「モノ的技術」はけっして市場経済一点張りでは発達しない。「信」を前提に成り立つ贈与経済によってしか発展しないのである。そして、その贈与経済を支える産業が「農」なのである。このことを強調しても強調しすぎることはない。
 しかし、「農」というものはそれだけにとどまるものではない。先述したように、私は、 百姓の思考は野生の思考と言っても良いと考えている。 百姓の心は「野生の心」。 百姓の精神は「野生の精神」。今私は「野生の心」のより強靭なものを「野生の精神」と呼んでいる。百姓はおおむね「野生の心」を持っているし、村の祭りによって「外なる神」の力が働いて、地域には「野生の精神」も生まれでてきていると思う。こう考えると、百姓の行う「農」というものは、単に国民の食料を作るというだけでなく、国の精神を作り出しているのではないか
 中沢新一いうところの農業が純粋贈与であることの意味は大きい。したがって、三ちゃん農業などの家族農業は、「地消地産」の原理原則に則って、しっかり守らなければならない。

 なお、ちなみに言っておけば、地産地消は生産者の論理であり、こういうものを生産したからそれを消費せよというもの。地消地産は消費者の論理で、こういうものを消費したいからそれを生産しろというものである。これからは電気も地消地産でなければならない。地域で消費するから小水力発電など地域で発電しようという訳だ。地域の自立のため
には地消地産でなければならない。贈与経済はそういうものだ。

 田舎において人びとがイキイキと生きていけるようにするには、まずは贈与の世界、つまり地域通貨の世界を田舎に作らなければならない。それができれば、都市で働き口がなく、経済的に苦しんでいる人たちが田舎に移り住むことができる。地域通貨については、その実践論など言いたいことがいっぱいあるけれど、ここでは、「田舎を生きる」ためには、贈与経済が不可欠であるということだけを指摘するにとどめたい。

(2)都市を生きる・・・文化を生きる

 技術の世界にも神がいない訳ではない。見えにくくなっているというだけだ。
 エロスは、基本的には自然を生きることである。だから、結婚は「神とのインターフェースである」というのだ。だからといって、結婚して子どもを育てている人が文化を生きる、そのような生き方が否定されている訳ではない。なぜなら、エロスは、自然と技術や田舎と都市という対立概念、或いは西洋と東洋という対立概念を超越しているからである。しかし、都市においても結婚の道を選んだ人は、エロスの神を信仰しなければならない。都市を生きる人は、さまざまな人がいる。神を信じない人もいるだろう。都市では神が見えにくくなっているから仕方がないだろう。それはそれでいい。自分の階段を一歩一歩高みに向かって登っていけば良い。つねに重力の魔がその邪魔をするから、しょっちゅうくじけそうになるかもしれない。しょっちゅう危機に直面する。そのときは「力への意志」が働いて、神の「投企」が働くかもしれない。そのとき、それまで神を信じなかった人でも、神の「投企」、すなわち神の力、神の恵みを感じるであろう。自然を生きる、都市を生きる、文化を生きるということはそういうことだ。
 都市に生きる人は、子育てに生きるか文化活動に生きるかの、二者択一をしなければならない。人生の途中で方向転換をしてもよい。結婚生活をあきらめて文化活動に専念しても良いし、独身主義であった人が文化活動をあきらめて結婚生活に踏み切っても良い。しかし、子育てに生きる人は、年齢の如何を問わずエロスの神に「祈り」を捧げなければならない。それが私のいちばん言いたいことだ。都市は、神の贈与に働きにくい市場原理の渦巻く競争社会である。それについていけない弱者がいるのはしかたがない。そういう人は、都市でも見られる贈与世界を必死で探し出し、どうしてもそれが見つからないときは、最終的に田舎に移転することが必要である。田舎でさえ、贈与社会ができている訳ではないので、田舎に移転しても、現状ではなかなか食っていけないかもしれない。将来は必ず田舎は贈与の世界、助け合いの世界に変わるとは思うけれど・・・。今のところは、田舎で食っていくのも決して容易ではない。しかし、私は、将来の可能性を信じて、都市で食っていけない人は田舎に移転すべきだと考えている。都市は厳しい競争社会であって、弱者には本質的に適合し得ない場所である。そんな場所には一日も早く見切りをつけるべきだと考える次第である。

 したがって、都市というのは、強者が文化に生きる場所である。では、文化とは何か? 
 文化というものを本格的というか哲学的に論じたのは、ホワイトヘッドが初めてである。ホワイトヘッドの文化論は、目から鱗(うろこ)が落ちる思いがする。延原時行は、その著「「ホワイトヘッドと西田哲学との<あいだ>・・・仏教的キリスト教哲学の構想」(2001年3月、法蔵館)で、ホワイトヘッドは延原時行のいう「諸原理の現実変換」の問題を「観念の冒険」と呼んでいる、として縷々論じているが、これすら容易には説明できないし、ましてやホワイトヘッドの文化論はきわめて説明しずらい。彼独特の哲学用語の説明が結構厄介であるということだ。それを解説していると日が暮れる。そこで文化という哲学的な意味を私流に判りやすく説明したい。

 ホワイトヘッドは、文化化とは「文明化された宇宙」であるという。私は、拙著「祈り」の科学シリーズ(1)「100匹目の猿が100匹」(2012年1月、ジパング・C・S、電子出版)で述べたように、私たちの脳には「内なる神」が、また宇宙(天)には「外なる神」が存在する。それが響き合うのである。波動の共鳴現象である。これを「協和」というが思想的には良いが、判りやすくいえば「響き合い」である。

 ここに至までに、すでに、ニーチェの「力への意志」やハイデガーの「投企」やホワイトヘッドの「抱握」の説明をしてあるので、もう一度振り返っていただければありがたいが、神から私たち人間に「力の意志」、「投企」、「抱握」という働きが及んでいる。それを受け止めるのは、人間それぞれの「体験」にもとづくそれぞれの「心」である。したがって、神の思い(真理)を受け止める場合、その受け止め方というのは千差万別である。悟りを開いた名僧なら、かなり神が示す真理を正しく受け止めることができるかもしれないが、通常、私たちは神が示す真理をきわめて単純化した形でしか受け止めることはできない。だから、いわゆる文化というものは表面的で、実は、その奥に隠されている真理に想い馳せなければならないのである。そういう点には十分留意する必要はあるが、ざっくり言って、文化というものは神が示す真理を含んでいる。それをどこまで真理に近づいて感受するかは、その人の直感力による。野生の精神に欠ける人は絶対に直観はできない。直感力は、「重力の魔」の働きにもめげず、苦しい修行を積んで、野生の精神を身につけ、道の奥義を究めた人でないとなかなか得られるものではない。

 しかし、それほど難しく考えてはいけない。私たちは私たちなりに、文化の奥に潜む真理をある程度感じることはできる。その感じを大事にすればそれで十分。あとは「力の意志」にしたがって、自分の階段を一歩一歩高みに向かって登っていけば良いのである。そのうちに直感力は身に付くだろう。以上は「内なる神」の「受け止め」である。
 この「内なる神」の「受け止め」は、宇宙の「外なる神」に働きかけ、波動の共鳴現象が起こるのである。そういう文明というものが、私たちを通じて宇宙の「外なる神」に作用して、宇宙そのものが文明化される。それがホワイトヘッドのいう「文明化された宇宙」である。このことをざっくり言ってしまえば、私たちの文明活動が、神を変える、宇宙を変えるということだ。
 都市におけるすべての文化活動は、人間の歴史を意味するだけでなく、宇宙的な活動である。

(3)直観について

 わたくしは、第1章第1節「ニーチェについての概論」で、次のように述べた。すなわち、
『 ニーチェは、「人間とは動物から超人に向う間の存在であり、人間そのものではまだダメで人間を超えていかなければならない。」と考えているのだが(「ツゥラトゥストラの序説」)、この認識は現在の科学からいってもまったく正しい。人間の脳は三階建て構造になっており、恐竜型脳の上に原始哺乳類型脳があり、その上に新哺乳型脳がある。そして大事なことは、その三階の脳はまだ一割ぐらいしか使われていないのであって、あとの9割の脳は未使用状態である。今後人間が発達していくとその未使用の脳は少しずつ使われていく。そのとき、人間はどのような存在になっているかは「神のみぞ知る」のである。現在の最新科学を知らないニーチェがそこまでは知る由もないが、「人間とは動物から超人に向う間の存在であり、人間そのものではまだダメで人間を超えていかなければならない。」というニーチェの認識は、現在の最新科学からも正しいのである。脳の未使用領域が全部使われるようになった段階の人間をニーチェの言い方にならい「超人」と呼ぶならば、これから人類は「超人」に向うのである。彼は、ツゥラトゥストラをして、「超人にはなれなくても、超人のために超人を用意すべく努力して死んでいけ。自分のあとに超人が生み出さればいい。」と言わしめている。ニーチェは「超人」と言われているが、ここでいう「超人」とはとは違う。ニーチェはまだ現在のままの人間である。したがって、私の、言葉の使い方に混乱が生じないように、ニーチェのことを今後「巨人」と呼ぶことにしよう。』・・・と。

 ニーチェは、私のいい方では、超人ではなく、巨人だ。多くの人が直観を働かすことができるようになれば、人類は今の人間を超越した本当の意味の「超人」となる。まだほとんど未使用のまま残されている状態の新哺乳型脳が、驚くべき発達を遂げて、 人類は今の人間を超越した本当の意味の「超人」となるのである。その発達の原動力は、巨人の直観力である。

 直観と直感とは違う。直感は、感覚的に物事を瞬時に感じとることであり、「感で答える」のような日常会話での用語を指す。他方、直観は五感的感覚も科学的推理も用いず直接に対象やその本質を捉える認識能力を指し、直感的な洞察力のことです。発達した第六感のことである。直観,すなわち直感的な洞察力で有名なのはプロ棋士の直観力だ。これは凄いのです。その科学的な研究も行われているが,プロ棋士の直観力による判断は正しく、そこに出来上がりの局面が頭の中に見えているという。今はないけれど局面が進むにつれて出来上がっていくずっと先の局面が見えているというのだ。今ないものが見えていて,先々そのとおりになっていく。直観というのはそういうものだ。いい加減なものではない。よほど経験と修練を重ねていけばそういう直観力は身に付くのである。逆に,普通の人は直観力がなく、あるのは直感だけである。直観と直観は違う。違うけれど,直観力というものは科学的に存在する。今私がここで言いたいのは直観の科学性である。

 宇宙の彼方から「波動」がやってくる。「外なる神」が発する「波動」、それを私たちは見るのだが,目には見えない。音楽家は「天空の音楽」としてそれを聞くことができるが,普通の人間の耳には聞こえない。しかし,第六感すなわち直観を働かせば見える。 キリストやマホメットやお釈迦さんなどいわゆる聖人と言われる人には見えていたのだ。そう考えるのは決して非科学的ではない。私はそのことを主張したい。

 ところで、「外なる神」を科学的な立場から理解するには、浜野恵一の「脳と波動の法則・・・宇宙との共鳴が意識を創る」(1997年3月,PHP研究所)が一番良い。関係する図書はいくつかあるけれど,一度はこの本を是非読んでもらいたい。ここではその真髄部分を補足説明しおこう!

 私たちの脳は,三層構造になっている。は虫類型脳と原始ほ乳類型脳と新ほ乳類型脳というのだそうだが,は虫類型脳と原始ほ乳類型脳はほぼ一体的に機能するので,私はそれらをまとめて「活力の脳」と呼びたいと思う。新ほ乳類型脳は,知恵と大いに関係があるので,それを「知恵の脳」と呼びたい。「活力の脳」は赤ちゃんの時からどんどん発達していくが,「知恵の脳」は青年期を過ぎて成人になってはじめて力を発揮する。成人になると「知恵の脳」は「活力の脳」を十分コントロールできるようになるのだそうだ。しかし,この「知恵の脳」は,未知の部分が多く,またほとんど未使用の状態だと言われている。直感力の発揮できる人はこの「知恵の脳」を普通の人より多く使っているが、私たち凡人はおおむね10%ぐらいしか使っていないのだそうだ。90%が未使用だというのは まったくもったいない話だ。人によって悪知恵を働かせるために「知恵の脳」を使っている人もおりケシカラン話である。詐欺師などはもってのほかだ!「知恵の脳」は良い方向にどんどんつかって、大いに発達させていかなければならない。それが人類に与えられたこれからの大いなる課題である。

 ところで,私は、「祈り」の科学シリーズ(1)で、脳の中では、ともかく波動の共振が起っているという点と、共振を起こす波動の元は外からのものであり、それを受けるのは脳の内部の波動であるということを申し上げたが,これは「外なる神」と「内なる神」との共振(共鳴,響きあい)を述べたものである。「外なる神」も確かに存在するし,それと共振する「内なる神」も当然存在する。

 直観力というものは科学的に存在する。今私がここで強調したいのは直観の科学性である。今西錦司は、「野生の人」であり、まさに直観の働く巨人である。
 「祈り」の科学シリーズ(1)で紹介した「黒もじの杖」の話を例にして、量子脳力学の立場から直観の説明をしておきたい。今西錦司は黒もじを必死になって探し求めた体験が過去にたびたびあったに違いない。そういう「野生の体験」が「学習」として「波動粒子B」に保存されていた。あるとき黒もじの杖が欲しいと強く願いなら下山していたとき、その強い願いが「外なる神」と共振を引き起こした。そして、突然、「波動粒子A」も共振を起こし、彼は何か異常を感じたのに違いない。直観が働くには過去の必死の体験と強い願いが必要だが、まちがいなく 直観力というものは科学的に存在する。
 「活力の脳」によって「ひらめき」(霊感)を感じ、「知恵の脳」によって「直観」を得る。普通の人にも「祈り」によって「外なる神」の働きかけが起こるが、直感力のある人は「外なる神」の特別の働きかけがある。日常生活においておおいに「祈り」を行うとともに、時にはおおいに特別な体験(学習)を積み重ねて「知恵の脳」を磨こうではないか。

(4)都市に自然を!

 かって、梅原猛は「巨木の町づくり」ということを言ったことがあるが、私の場合は、「水と緑の町づくり」ということをいろいろと言ってきた。まず、梅原猛は、その著書「森の思想が人類を救う」(1995年4月、小学館)の中で次のように言っている。すなわち、
『 浄土教の教え、すなわち<山川草木悉皆成仏>の考え方は典型的な<森の思想>である。』
『 縄文時代から連綿と続いているところの「日本の宗教」というものは<森の宗教>である。』
『 この<森の宗教>の思想について、私は長い間いろいろと考えてきたのですが、結局、森の宗教の思想 は、生きとし生きるものはすべて共通の生命で生きている。そして生きとし生きるものはすべて成仏することができるという考え方だと、最近思うようになりま した。動物の命も、山や川すら成仏できる。そして成仏するばかりでなく、生きとし生きるものはすべて生死の間を循環している。』
『 植物や動物の命を尊敬して天地自然を尊敬する。そしてその天地自然や動物と調和して生きていく、共生する方法をわれわれは考えなければならないのです。』
『 人間は動物や植物を殺さなければ生きていけない面があります。動物の命を奪うにせよ、われわれと同じ命をもった木を、そして動物を殺す訳ですから、その木や動物の霊を手厚くあの世に送らなければならいのです。霊をあの世に返さなければならないのです。 そしてまた木や動物たちにこの世に帰って来てもらわなければならない。私は、こういう宗教を今こそとりもどさなければならないと考えるのです。』
『 人間が生きていくということはどういうことなのか、それは植物も動物もみな同じ命であって、すべて のものはあの世とこの世を循環しつつ、永遠に共生しているのだということを認識しなければならないと思います。
 そういう思想が人類に浸透したときに、人類は生き残る可能性がでてくるのだと思います。巨木の問題 は文明の根底に関する問題であり、そして巨木を中心とする街づくりは、21世紀を正視する街づくりでなければならないと私は思います。』・・・と。

 巨木の問題 は文明の根底に関する問題であり、そして巨木を中心とする街づくりは、
21世紀を正視する街づくりでなければならないと梅原猛は言っているのだが、私はそこまで深い思想ではなく、私のただ単なる感性として、「水と緑の町づくり」ということをいろんな機会に言ってきたのだが、この機会に、それをひとつ紹介しておきたい。

『 ほとんどの都市河川は、従 来、都市化の急激な進展に対応して、洪水対策を急がなければならなかったので、高い直立護岸もしくはそれに近いものが多い。水面は、河岸から随分下にある ため、景観も悪いし、ボート遊びなどもできない。護岸は、お化粧程度の改善はできるかもしれないが、抜本的な改善は困難であろう。
 しかし、水面については、堰を設ければ、豊かな水面を創出することはさほど難しい事ではない。従来、そういった堰は、、洪水対策上ないほうがいいので、 河川管理者は許可しなかった。今もその方針が変わっている訳ではないが、私は、今の技術水準からして許可はできると思うし、場合によれば、河川管理者がそれを設置することも可能であろ
う。 河岸は、道路になっている所が多く、緑道にはなりにくいかもしれないが、河川管理用の通路として確保されている所もあるので、そう云った所は、工夫をすれば十分緑道になり得ると思う。
 憩いの広場は、公園橋として整備できると思うが、河川に隣接した土地があれば、ポケットパークを逐次作って行けばいいであろう。河川は、線として、町の 景観上かけがいのないものであるので、場所はよほど考えなければならないが、橋上レストランというものも考えられるかもしれない。』

『 近年は、ビオトープという ことが都市計画上も重要な課題になって来ているが、ビオトープで大切なことは、水と緑のネットワーク化ではなかろうか。都市計画に確かに「緑のマスタープ ラン」と言うのがある。しかし、水と緑を一緒に考えた「水と緑のマスタープラン」というものはない。何故か。
 都市河川は、確かに、公園サイドから見て魅力のない状態になっている。しかし、今述べたような、水と緑のプロムナードとか治水緑地とか、河川サイドと公 園サイドが共同して取り組めば、都市河川も魅力のあるものになって行くはずである。いや、絶対にそうしなければならない。そうでないと、我が国が国際的に 尊敬されるなんて事には到底ならないと思う。我が国は、我が国の伝統的な自然観、それは、私に言わせれば、先に言った「自然が人工を完成し、人工が自然を 完成する」と言う自然観であるが、そういう自然観に基づき、美しい国、美しい町を作って行かなければならない。相当の予算がかかっても。かかる観点から、河川サイドと公園サイドが協力して、「水と緑のマスタープラン」 を策定しなければならない。』

『 現在は、今までの急激な都 市化の進展により、自然環境という観点からは問題も少なくないが、それでも都市における残された貴重な自然空間である。したがって、これを大切にしなければならない。これを大切にし、現状の改善すべき所は改善し少しでも理想的な姿にもって行く、そのような努力が必要であろう。

 河川を都市における貴重な自然空間と見たとき、最も大きな問題は、河川と背後地との関係が多くの場合切れているということである。これを何とか改善しな ければならない。 河川は、洪水の流れる所でもあるので、自ずと河川管理上の制約があって、緑、とりわけ高木が少ない。自然生態系を考えたとき、理想を言 えば、これは大きな問題であって、何とかしなければならない問題ではなかろうか。
 河川を水と緑の回廊と考えるのであれば、所々において、どうしても河川と一体になった林あるいは森が必要である。勿論、河川サイドでは、目下のところ、 何ともならない問題である。しかし、これからの問題として、今後、公園サイドにお願いするか、自然公園ということで環境庁にお願いするか、あるいは総合的 な河川環境整備制度を創設して河川サイドで実施するか、方法はともかく、21世紀を視野にいれた新たな取り組みを急ぎ模索しなければならないと思う。

 当面の問題としては、河川に隣接する背後地の公園で、河川あるいは河川公園と一体的な形になっていないものがある。至急これの改善が必要であろう。』

 日本生態系協会は、日本におけるビオトープの草分けであり、人工的に形作られた水路やため池、学校の生物観察池など、より自然に近い形に戻し、それによって多様な自然の生物を復活させるというものである。日本生態系協会の熱心な取り組みのお蔭もあって、今では都市での実例は実に多く、学校ビオトープのように環境教育の一環で学校などの教育施設に設置される例も少なくない。しかし、都市におけるビオトープを増やしていく余地はまだまだある。
 巨木の街づくりや水と緑のネットワークとあわせて、ビオトープをもっともっと増やしていけば、都市における自然はかなり改善され、都市に小動物が生息するようになるだろう。となれば、都市における神の「投企」が感じやすくなる。都市における自然の回復が関係機関の力強い取り組みによっておおいに進むことを願ってやまない。

第4節 エロスの神
 私たちは今こそエロスの神を信じて正しい人生を歩まないと「個人の幸せ」はおろか「種の保存」すら危なくなる恐れがある。イギリスの医学ジャーナリストであるロイ・リッジウェイという人の言うところによれば、「多くの子供から助けを求める悲鳴が聞こえてくる」のだそうだ(「子宮の記憶はよみがる」1993年1月、めるくまーる)。彼はこのように訴えている。すなわち、
『 自分ではどうしようもない「死の恐怖」におびえているのだ。考えてもみたまえ!母親が、女性が、そして多くの識者が、女性の身体の秘密を知らなさすぎる。懐妊の前のタバコや飲酒、あるいは情緒不安的な生活は、知能の低い子供とか五体不満足な子供を出産する可能性が高いと言われているのに、若い女性でタバコを吸い酒に飲まれている人あるいは生活が乱れている人が少なくないではないか。』と。

 子供は社会の宝である。プラトンの「エロス論」はそのことをいちばん訴えているのだが、その子供はどんどん悪くなってきている。非正常な子供がどんどん増えているのだ。
 出産後の育児も問題だらけではないか。例えば、蛍光灯は幼児に良い影響を与えないようだし、少し大きくなってのパソコンゲームなんてものはもってのほかだ。コミュニケーションがうまく出ない子供が増えているのではないか。 子供は社会の宝である。私たちは今こそ「エロスの神」を祀り、正しい人性を歩む努力をしなければならないのではないか。

 プラトンのエロス論はダメだと思えてならない。やはりあまりにも西洋的で、プラトニックラブはダメだけでは、「生」への衝動が出てこないと思うのである。シヴァを考えながら、「性」への衝動を「生」への衝動に昇華させないといけないのではないか。
 わが日本においても、縄文人の感性としては、自然と一体になること、それは豊穣の神、贈与の神、恵みの神をわが身に引き入れることであり、聖なる合体こそ生きることではなかったのか。 男女が一体になることは、聖なる合体の一部である。聖なる合体、それは自然と一体になることである。

 私は、「脳と心の量子論」(治部真理、保江邦夫、1998年5月、講談社)の説明の中の「電気双極子は量子電磁場の波で簡単にゆさぶられる。でたらめな波がくれば、電気双極子もでたらめにふりまわされるし、きれいに整った波がくれば、電子双極子のほうも整然とした動きになる。』という部分に注目しており、最初の外的な刺激や内的な刺激というものは、美的なものが望ましく、醜悪なものはできるだけ避けた方が良い、と思っている。自然の奏でるリズムは美しい。だから、私たちは自然と一体になるとき、自然のリズムは、「脳と心の量子論」が説明するミッキー場と量子電磁場の中に秩序ある波を生み、霊妙な光を放つことになる。これは「生命」そのものが、霊妙な光を放ち、イキイキとしてくることを意味しているのではないか。
 すなわち、「生きる」とは自然と一体になって、生命の本体がイキイキすることではないかと思うのである。したがって、エロスの神は、プラトンのそれだけではなく、シヴァの性愛の神、日本の「ホトの神さま」や摩多羅神、さらに自然神や子どもの健やかな成長を見守る神さまなど、さまざまな神を祀ってその祭りをすることが必要かと思われる。ニーチェとハイデガーとホワイトヘッドの統一哲学はひとつだが、神という存在は、この世でさまざまな顔を持つ存在でもある。神は「一であり多」である。そういう神を祀って「祈り」を捧げていると、私たちはイキイキと正しい道を歩むことができ、子どもたちもイキイキとしてくる。それがエロスの神のご利益である。

子どもたちは、愛、美、希望。
世の大人たちよ!
あなたは美しきもの、かけがいのないもの、
唯一無二のものだ。
美しきものに愛はうまれ、
美はうまれ、希望はうまれる。
空は高い、さあ歌え、
愛の詩、美の詩、希望の詩を!
小鳥はさえずり、山は光り輝く。
そよ風の中、愛の詩、美の歌を歌え。
エロスの声を聞きながら、「いのち」の詩を歌え。
子どもたちはすくすくと、幸いなるかな人生!
子どもたちはすくすくと、幸いなるかな仲間たち!
小鳥はさえずり、山は光り輝く!
空はいよいよ高い!

第5節 「人間は何のために生きているのか?」

 人は何のために生きているか。この問いは、人間のあり方や社会のあり方を考える場合のもっとも基本的な問いである。人や社会は「ニヒリズム」に陥っては何事にも「やる気」が起こらなくなる。ニーチェによれば、「ニヒリズム」とは、至高の諸価値がその価値を剥奪されることで、目標がなくなることである。目標がなくなるとは、「何のために」の答えがなくなることである。「人は何のために生きているか」その答えがはっきりしないようでは、それは「ニヒリズム」に陥っていることであり、何事もなげやりになるというか、「やる気」が起こらなくなるのである。いきおい「生活を楽しむ」という価値観だけが勢いづいて創造性というものがなくなる。今の日本はそういう状態に陥っている。日本はこういう状態を一日も早く脱却しなければならないが、そのためには哲学の手助けが必要だ。ニーチェの哲学といいたいところだが、実は、ニーチェの哲学には致命的な欠点がある。それは彼の哲学が「神は死んだ」ということになっているからだ。

 人は何のために生きているか。 生きるために生きているのである。生きるとは、一般的には、先祖から受け継いだ命を子孫に繋ぐことである。子供は、母親の腹の中で胎芽から胎児へとして成長し、やがて出産してくる。その間、子供は母親の肉体および精神の影響を強く受けるのだが、特に胎芽の時期は「系統発生」という摩訶不思議としか言いようのない現象が母親の腹の中で起こっている。これは女性にのみに与えられた能力であって、男性にはこんな能力はない。したがって、男性はまず女性のそういう能力に驚きと敬意を覚えなければならない。そして、それを出発点として、女性の性器(ホト)そのものの不思議な力に敬意を表してもらいたい。拙著「女性礼賛」(2012年*月、シパング・C・S、電子出版)で一番いいたいことはそのことである。
 生きるとは、自分の人格を高めるとともに、子供にそれを伝承しながら子供を立派に育てることである。親から子供に伝承されたことは子供の「知恵の脳」に記憶される。むかしから「親の因果は子に報い」などと言われてきているし、常識的に考えて、子供が親の影響を受けるということは肯定できることなので、私は、生きるとは、自分自身が立派に生きる、そのことが子供に良い影響を与え、ひいては立派な子孫をつくりだすのだと考えたい。これらを煎じ詰めて言えば、人間は立派な子供を育てるために生きているというのもきわめて大事な生き方である。再度申し上げたい。人間は何のために生きているか。立派な子供を育てるために生きている。
 子供が健全な姿で生まれてくるには、母親が健全でなければならない。したがって、亭主としては、女房が健全であるように努めなければならない。ゆめゆめ女房が情緒不安定にならないようにしなければならない。女房が夫を信じ将来に希望を持って生きていけるようにする、それが男の生きる一つの大きな目的である。それができないような男は生きる価値がないので、社会的に何らかの対策を考えねばならないのではないか。
 なお、子供を産みたくても子供を産めない女性、またはそもそも子供を作りたくない女性もいるので、そういう人たちのために、生きる目的について補足しておくと、文化に生きるという生き方も立派な生き方であるということだ。自分自身が立派に生きる、つまり人格を高めるということは文化に貢献することである。

 前章で、私は、『要するに、ニーチェは、「何人も自分自身で善悪を考え、自分の階段を一歩一歩高みに向かって登っていくこと」が、「力への意志」を生きることだと、教えているのである。私もまったくそうだと思う。このことを私たちの生きるモットーにしようではないか。
 今私たちは、ホワイトヘッドによってニーチェの悩んでいた矛盾は乗り越えられ、心おきなく神の存在を語ることができるので、私は、最高の賢者たち向かって、「自分の感じた神を子どもたちに語り、子どもたちが自分の階段を一歩一歩ずつ高みに向かって登っていくことを教えてやって欲しい。」と自信を持って言うことができる。  また、私たちは、すべての子どもたちに向かって、「神は君たちともにいる。君たちの神を信じて、 自分の階段を一歩一歩ずつ高みに向かって登っていって欲しい。」と言うことができる。この点については、できるだけ多くの賛同者を得たいものだ。なお、 私は、最高の賢者たちには、世のリーダーたちに向かってリーダーのあるべき姿を語ってほしいと申し上げたい。
 ここで、最高に賢者たちとは、神に触れその道の奥義を究めた人のことであり、直観の働く人たちのことである。また、世のリーダーたちとは、政治に限らず、すべての趣味の世界で指導者として活躍している人たちのことである。世のリーダーたちは、自分で意識しているかどうかは別として、自分の階段を一歩一歩ずつ高みに向かって登って行っている人たちのことである。しかし、そういう人たちもその道の奥義を究め、最高の賢者の仲間入りを果たすために、引き続いて自分の階段をさらに高みに向かって登っていかなければならないのである。私がここで言いたいことは、すべての人間に「力への意志」が働いているということだ。ニーチェの最大の功績はこの点にある。』・・・と申し上げた。しかし、この章の文脈から言って、次の主張を付け加えなければならない。
 人間は何のために生きているか。立派な子どもを育むために生きている。 または、文化を育むために生きている。どちらかである。
 私は、子育てに生きる人に、『子どもを傷つけてはいけない。胎芽のときもだ。エロスの神に祈り、子どもの親として自分の階段を一歩一歩ずつ高みに向かって登って行って欲しい。」・・・と言いたい。
 そして、私は、文化を生きる人に、「世の子どもたちの未来のために、 エロスの神に祈り、文化を生きる人間として自分の階段を一歩一歩ずつ高みに向かって登って行って欲しい。」・・・と言いたい。
 さらに、私は、非情な情熱を持って何かに打ち込んでいる人には、「文化の冒険を生きる人間として、その道を究めるよう、その階段をさらに高みに向かって登ってほしい。子どもたちが生まれながらにして超人、そのような人類を夢見て・・・!」・・・と言いたい。

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