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2012年10月12日 (金)

私の電子書籍「書評<日本の文脈>」序章

序章

 この「日本の文脈」という本は、日本を代表する今をときめく二人の知性・中沢新一と内田樹とのいくつかの対談を集めたものである。だから、一つのテーマ、例えば贈与な贈与というテーマがいくつかの対談にまたがって出てくる。これではあるテーマをじっくり考えるさいに不便である。そこで私は、この書評を書くにあたって、この対談集のあちこちに散らばっているものをテーマごとに整理するところから始めた。テーマは「キリスト教」「贈与論」「ユダヤ人と日本人」「形はリズム」「UFOを見たか?」「<いのち>の問題」「男のあばさん」という7つである。なお、対談の話言葉には、それぞれの話し手のもつリズムというものがある。そこで、この書評では、最低限必要な範囲で、話し言葉をそのまま紹介することにした。その点が他の書評と違っているかもしれないが、この対談集の書評としては、それが最適であると考えたのである。

 第1章の「キリスト教」は、ユダヤ人の考え方やレヴィナス研究にもとづく内田樹哲学の裏打ちのお蔭で、奥の深い対談となっている。その書評を書くには、私の手に負えない部分もあるのだが、比較的なじみの薄い内田樹の言っていることの意味は十分理解するように努めた。中沢哲学については私にとってすでになじみのものである。一神教については、私は今まである種の違和感を持っていたのだが、内田樹と中沢新一の対談を読んでその違和感もふっきれた。ありがたいことである。

 人は何のために生きているか。この問いは、人間のあり方や社会のあり方を考える場合の最も基本的な問いである。人や社会は「ニヒリズム」に陥っては何事にも「やる気」が起こらなくなる。ニーチェによれば、「ニヒリズム」とは、至高の諸価値がその価値を剥奪されることで、目標がなくなることである。目標がなくなるとは、「何のために」の答えがなくなることである。「人は何のために生きているか」その答えがはっきりしないようでは、それは「ニヒリズム」に陥っていることであり、何事もなげやりになるというか、「やる気」が起こらなくなるのである。いきおい「生活を楽しむ」という価値観だけが勢いづいて創造性というものがなくなる。今の日本はそういう状態に陥っている。日本はこういう状態を一日も早く脱却しなければならないが、そのためには哲学の手助けが必要だ。ニーチェの哲学といいたいところだが、実は、ニーチェの哲学には致命的な欠点がある。それは彼の哲学が「神は死んだ」ということになっているからだ。
 したがって、キリスト教というものをもう一度見直して、神の復活を果たさなければならない。幸い、今をときめく中沢新一と内田樹という二人の知性が「日本の文脈」の中で誠に重要な視点を述べているので、それを出発点として、ニーチェを超える新たな哲学を構築しなければならない。

 第2章の「贈与論」は、この対談集の中心課題のような点もあって、二人の知性がぶつかり合って、まさに面白い議論になっている。贈与論は、東日本大震災を念頭において、昨年の夏に中沢新一が「日本の大転換」という画期的な本を世に出した。この対談集では中沢新一の考えの核となる論理が随所に出てくる。それに内田樹はレヴィナスの「始源の遅れ」という哲学の話をして、中沢新一の贈与論の新たな視点を提供している。今後の展開が楽しみである。
 中沢新一は、対談の中で、「農業では、工業と違って人間が大地の植物や動物に何かの働きかけを行ったとき、向こうから何ものかが贈られてくる。それは予測できない。しかも、人間が加えた労働よりも、はるかに大きなものを贈り返してくれるわけですね。春に十粒まいた種は、その年の収穫期には千粒に増える、という驚きがある。」と言っているが、この驚きというのが大事である。私が思うに、「いのち」とは自然との協和、響き合いであるので、「いのち」が生きている限り、自然との響き合いのなかで、どのような感じ方をするかがもっとも大事であって、自然の贈与に対する驚きとか感謝の「こころ」が芽生えたとき、人間は生きているという実感を得ることができるのである。農業はその典型であり、農業をただ単に食料生産の手段と考えてはならない。今後中沢新一の贈与論にもとづいて、日本の地域再生を図り、日本のさらなる発展を期さなければならない。

 第3章の「ユダヤ人と日本人」は、内田樹の知見にもとづくたいへん有意義な議論がなされている。ユダヤ人は論理的な思考が根強く、日本人は感情的なというか非論理的な思考が根強い。今後日本がこれからの世界文明を切り開いていくためには、ユダヤ人に学ぶべきところが多い。
  内田樹が道 (武道や芸道) というものを「始源の遅れ」という概念と繋げて考えている、その考え方は面白い。きわめて重要な考え方である。偉大な流祖は多分こう言うのだろう。「夢の中の天狗はたしかに存在する。疑う事なかれ!人間社会には穴が開いていて、夢の中の天狗はその穴のなかにあるのであなたたちには絶対に見えない。見えないがあなたたちは穴の中に入ってきてそれを見る努力をせよ。そして、夢の中の天狗があなたたちに何を望んでいるか、それを考えよ。夢の中の天狗を怒らしてはならない!夢の中の天狗は道の奥義を教えてくれる存在そのものである。疑う事なかれ!」となるのではなかろうか。これは、「始源の遅れ」の概念そのものであり、ユダヤ教の原点、つまりヤーウェの宣言そのものではないか。私たち日本人はレヴィナスの哲学をもっと勉強し、ユダヤ文化というものをもっと深く勉強しなければならないのではないか。

 第4章の「形はリズム」は、内田樹が語る「能」の秘密に迫るものである。「能」については、かって中沢新一が「精霊の王」を書き、世に一石を投じているが、内田樹は、実際に「能」の稽古を長年やっていて、武道にはない「場の力」というものを実感している。「場の力」というものは、中村雄二郎がいうように形がリズムであるからこそ生じる。能舞台の「場の力」という話を聞いたのはこれがはじめてで、まさに目から鱗が落ちた。この「場の力」というものは、リズムによる引き込み現象である。中村雄二郎もこの点には気がついていない。
 縄文時代の祭りは、広場の真ん中に火を焚き、広場のふちには柱を立てた、そのような場所、それは住まいの中の「炉」そのものだが、そういう場所をつくって、縄文のリズムに合わせて神に捧げる踊りを踊ったのではなかろうか。その踊りは、小林達雄が言うようなものであったろう。すなわち、縄文のリズムは人の身振りや身のこなし方に注文をつけるが故に、その踊りはスリ足で舞い舞いして、なかなか大地からはね跳ぼうとしないのである。そういう自然に溶け込んだ祭りが連綿と継承され、大和川源流の人たちの猿楽にも繋がっていったのではなかろうか。「いのち」とは自然への溶け込みであり、そういう意味で能は「生きている」ことそのものである。

 第5章の「UFOを見たか?」は、心の問題に切り込んだものである。霊的な経験は、多くの人が経験したことがあるのではなかろうか。安易に幻覚だと言って済まされない心の問題を含んでいる。

 心理学者・ユングも晩年にUFOについて書いているが、ユングに近い人エーリッヒ・ノイマンという人が、「大母神」という本の中で女の象徴表現はすべて容器だ、と言っている。彼は、世界体器という表現を用いているが、女性の肉体を容器と世界、これが同一のものとして表現されている、というようなことを言っている。この論法でいくと、UFOというのは空を飛ぶ容器(ホト)である。実は、ホト(穴)についてはたいへん深い哲学がある。穴の哲学と言っていいだろう。

 第6章の「<いのち>の問題」は、「日本の文脈」という対談集では真正面からは取り上げられていないので、どちらかといえば私からの問題提起である。今回の大震災によって、被災地では「いのち」の尊さが実感され、多くの人たちから「命を繋ぐ」とか「絆」という言葉が飛び出している。また、大震災後一年を過ぎた現在、生きる目標を見失っている人も少なくない。したがって、私は、「贈与」の問題のほかに、「命」の問題や「人間は何のために生きているか」という人類普遍の大問題も今こそ考えねばならないと思うのである。
 今のところ「いのち」の哲学に真正面から取り組んだことのある哲学者は森岡正博ぐらいしかいないようなので、私はこの章で森岡正博のいう「補食の欲望」を紹介した。森岡正博によれば、共生思想が成熟するということは「身体的な欲望」に「生命の欲望」が勝(まさ)るということである。私はリズム論の立場から共生という言葉より共和という言葉の方がいいと考えているので、私流に森岡正博の言い方を言い換えれば、「身体的な欲望」を「生命の欲望」に転轍するということは、共和の社会(自然や人と響き合える社会)を作ることに他ならない。

第7章の「男のあばさん」は、内田樹の言っている言葉を借りながら、この「日本の文脈」という対談集の結論的なことを書いた。 内田樹は、哲学的という論理的で難しいことをふつうの人にもわかりやすく話しすることの必要性と、女性なら本来こう感じたり考えたりするであろうこと、特に男性や社会に対する不満などを女性に成り代わって話すことの必要性、二つの必要性を言っている。しかし、 私は、その他に、日本特有の考えを世界の人々に向けてわかりやすく論理的に話しすることが今求められているように思う。この第三の必要性は日本全体の問題で、男とか女は関係ない。日本文化は、欧米文化と比べて、女性的である。というのは、第4章で中沢新一は、「 日本のいちばん深い思考方法は、「男でおばさん」で、それを形式に仕立てたのが能じゃないのかなって思っています。 」と言っているが、彼がそういうのも日本文化には「穴」が開いているからである。日本は河合隼雄のいう中空構造になっているのである。そこがユダヤとは根本的に違うところで、曖昧というか非論理的というか、女性的なのである。日本人はおおむね主体性がない。中村雄二郎のリズム論で言えば、日本人は述語的なのである。みんなで一緒に渡れば怖くないのである。できるだけ自己主張はしないで、黙っておく方が良い。沈黙は金なのである。しかし、これからそういうことで世界のリーダーになれるか?よくよく考えねばなるまい。

 補筆は、第6章の補筆として書いたもので、「いのち」の問題を考えるにはどうしても量子脳力学の助けが必要だという観点から、量子脳力学でいうところの「いのち」について説明した。 記憶とは、自分でいろんな人の話を聞いたり自分なりにいろいろ考えることもそうであるが、その他に体験による記憶がある。すなわち、記憶とは、体験のことである。 記憶や意識というもの、そして心というものは、物理現象以外の何ものでもない。ということは、体験というものがすべての始まりであるということだ。胎芽時代の体験、胎児時代の体験、幼児時代の体験、子供時代の体験、青年時代の体験、壮年時代の体験、老年時代の体験それぞれが大事である。それぞれの体験によって心というものが形成さて育っていく。はじめから心というものがある訳ではない。私のいちばん言いたいことはそのことだ。

私の電子書籍「書評<日本の文脈>」は、電子書籍ショップで購入していただけると誠にありがたいと存じます。
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