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2012年10月 9日 (火)

私の電子書籍「祈りの科学シリーズ(2)」

第5章 原始力発電は悪魔的技術である・・・私の技術論

 「祈りの科学」シリーズ(1)の第九章で述べたように、「100匹目の猿現象」と同じ現象として,今西錦司が言うように何ごとも「起るべくして起るのである」。
さらに,次のようにも述べた。すなわち、
『 ともかくネットワークの中から「100匹目の猿」が出てくれば良いのだ。「100匹目の猿」が一匹現れれば,シェルドレイクの「形態形成場」のなかで時間と空間を超えた共時現象が起って,あっという間に全体の共通感覚となる可能性があるということだ。ここに共通感覚とは中村雄二郎の「リズム論」における共通感覚である。』・・・と。

 これらは,私の「リズム人類学」を進める上での基本認識である。私の基本認識では、「リズム」によって「100匹目の猿」が出てくるし、さらには良いものは起るべくして起って,共通感覚(常識)となる。常識的にこりゃ良いと思われるものは良いのである。
それから、永い歴史の中で使われてきた伝統技術は良いのである。
 しかし、「永い歴史の中で使われてきた伝統技術」ということについては、その認識の仕方において重要な留意点がある。それは物と「モノ」との違いを明確に認識しなければならないということだ。物は現在の科学でいうところの単なる物質のことであるが、「モノ」とはそれに心が籠っていると認識される場合の言い方である。「モノ」には魂(タマ)が籠っているのだ。この魂(タマ)については、あとで章を改め詳しく説明するが、とりあえずここでは、

 現在の認識からすると「タマ」は神と言い換えてもたいした違いはないかもしれないと言っておこう。厳密ではないが、まあ当面その程度に考えておこう。その方が判り やすい。したがって、神、それはやよよろずの神ということだが、新技術論では、神々の意向を慮って(おもんばかって)、とんでもない悪魔的技術が 誕生しないよう予測と評価に関する技術をどう確立すればいいかということになるし、風土的・民族的に芽生えた国民文化の奥に隠されている部分をどう認識するかということになる。日本文化の隠された部分、それは放っておいてもみんなに見えるように自然に立ち現れて来るというものでなく、よほどの努力をして引っ張りださないと普通の人には見えないものである。ハイデッガーの言い方に習えば「立ち現れないもの」或は「立たないもの」という言い方になろうか。伝統技術の中に隠れたモノ的要素を再評価し、これからのモノ的技術をどう確立するか。悪魔的技術の阻止とモノ的技術の確立がこれからの技術上の課題としてクローズアップされる。モノ的技術については章をあらためて説明することとし、ここでは原始力発電という悪魔的技術について私見を述べておきたい。

 私は以前,「光と陰の技術」と題して私の技術論を書いた。これは政治家が身につけておかなければならない政治哲学としての技術論で、技術論としては専門的なものではなく基礎的なものである。そこでは次のように述べた。すなわち、
『 古いものというか風土的・民族的に芽生えた国民文化に関わる伝統技術についてはその保存と活用を図る、そういうも のではなかろうか。』
『 これからあるべき新技術開発とは、新しいものというか「立たせる力」により・・・今後ともよりどん欲に開発される新技術には安全の面、倫理の面から必要に応じて歯止めをかけ、逆に、古いものというか風土的・民族的に芽生えた国民文化に関わる伝統技術についてはその保存と活用を図る、そういうも のではなかろうか。前者を歯止め技術、後者を伝統技術と呼ぼう。これらはともに公共財に属するものである。』・・・・と。

 さて、まず最初に伝統技術について触れておこう。昔から,私たちのエネルギーは,「木」と「水」であった。「木」で火をおこし,家の暖房に使ったし,「水」で水車をまわし米をついた。この伝統技術の発展を図らなければならない。近年はペレットを燃やす技術も結構発達しているが,ごく最近長崎総合科学大学の坂井正康(元三菱重工業広島研究所長)が画期的な「木」のエネルギー化技術を発明された。その内容はすでに何冊かの本が出ているのでそれを見てもらいたい。ともかく凄いのだ。この技術によって,私は「間伐材発電」の旗を振っている。このような技術は「木」を使うものであり,常識的に考えて良い技術である。
 原始力発電は、そういう伝統技術ではないので、なかなか常識的判断で評価ができない。良い技術なのか悪魔的技術なのか? これからはアトムの時代だ。原始力の平和利用だといわれれば,そうかなあ〜と思ってしまう。常識とは頼りないところもあって,説得力には欠けるところがある。おばあちゃんでも持っているのが常識であって,常識にむつかしい理屈はいらない。確かに論理的ではない。しかし,常識は,中村雄二郎の「リズム論」では共通感覚というのだが、常識は正しいのである。それが私の「リズム人類学」の重要な結論のひとつだ。
 私は、上で、新技術は安全の面から必要に応じて歯止めをかける必要があると述べたが、これを原子力発電に当てはめて言えば、原始力発電というものが安全の面から歯止めをかける必要があるのかないのか、その政治的判断が必要だということである。日本の原始力発電は正力松太郎や中曽根康弘の工作によって国策になったようであるが、その頃の国会では、「安全の面から歯止めをかける必要があるのかないのか」という議論がまったくなされていないようだ。そこが根本的な問題で、私に言わせれば、その頃の政治家に政治哲学を身につけている人がいなかったということである。今もその状況は続いており、誠に残念である。
 巨大地震をどこまで想定するかが問題で、外力としては、過去に発生したものだけでなく、発生しうる最大の地震を想定する必要がある。通常は発生しないような巨大な外力を想定して原始力発電を設計するという考えがむかしも今もない。外力に関する議論がまったくないのである。 それを考えれば原始力発電の安全は到底担保できないと言わざるを得ない。原子力発電問題が重大な政治問題であるにも関わらず、国民は、そういう実態をほとんど知らされないまま、 原始力発電をつくりたいという勢力の巧妙な工作にまんまと騙されている。国民を平気で騙す勢力、これを悪魔的と言わずして何と言おう。また、原子力発電所の事故に伴う被害は誠に甚大で、これを悪魔的と言わずして何と言えば良いのか。
 なお、私の最も尊敬する中沢新一が2011年8月に「日本の大転換」(集英社)という本を世に出した。これは「贈与論」であるが、政治家が知っておかなければならないことという意味で、政治哲学の本と言ってよい。政治家は、是非、この本を読んでほしい。その結論を一言で言えば、私たちは太陽の恵み中で生きているのであり、人工の太陽をつくるなんてことはとんでもないということだ。私流に言えば、私たちは太陽の子供である。その子供が母なる太陽を人工的につくるなんてことは、やはり悪魔的と言わざるを得ないのである。

 問題は一般国民が原発問題をどう考えるかである。上述したように、 原始力発電は、いわゆる伝統技術ではないので、なかなか常識的判断で評価ができない。良い技術なのか悪魔的技術なのか? これからはアトムの時代だ。原始力の平和利用だといわれれば,そうかなあ〜と思ってしまう。常識とは頼りないところもあって,説得力には欠けるところがある。おばあちゃんでも持っているのが常識であって,常識にむつかしい理屈はいらない。確かに論理的ではない。しかし,常識は,中村雄二郎の「リズム論」では共通感覚というのだが、常識は正しいのである。それが私の「リズム人類学」の重要な結論のひとつだ。
 「常識」で考えて、原始力発電は、伝統技術からかけ離れてしまった悪魔的技術である。これはできるだけ早く廃止すべきである。逆に,「木」を使った「間伐材発電」や「水」を使った「小水力発電」は大いにその推進を図らなければならない。


私の電子書籍「祈りの科学シリーズ(2)」は、電子書籍ショップで購入していただけると誠にありがたいのですが・・・。
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