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2012年10月 9日 (火)

私の電子書籍「祈りの科学シリーズ(4)」第7章より

第7章 結婚 ・・・神と人とのインターフェース

 かぐや姫の物語は誰もが知っている。わが国の古典文学の中で、子供たちにもっとも親しまれている物語のひとつだ。正式には竹取物語という。竹から生れた光り輝くお姫様という設定はまったく童話的であり、事実、童話として古くからいろんな書物が出ている。しかし、この物語の原本は、もちろん子供用として作られたのではなくて、すぐれて大人向けの文学作品である。《源氏物語》の〈絵合(えあわせ)〉巻では,《竹取物語》を〈物語のいでき初めの祖(おや)〉とのべているとおり、平安朝初期の、かなで書かれたわが国最初の文学作品である。伝統的な形態の中に創造的な契機をふくめて,貴族社会の俗悪性と人間的な愛情の美しさを巧みに描き出した物語で,たわいなく,おもしろく,美しく,深みのある文学作品である。
 あらすじは次のとおりである。
 昔,竹取の翁という者が竹の中から見つけ出して育てた3寸ばかりの小さな女の子は,3月ほどで輝くばかりの美女となった。その後,翁は黄金(こがね)の入った竹を見つけることが重なり,翁の家は豊かになった。
 〈なよ竹のかぐや姫〉と名付けられた娘の,その美しさに求婚する者も多く,とくに熱心な5人の貴公子に姫はそれぞれ難題を課し,その解決を結婚の条件にしたが,結局,5人とも失敗する。最後には帝の求婚もしりぞけた姫は,十五夜の晩,迎えに来た天人たちとともに,みずからのくにである月の世界へと昇ってゆく。
 そののち,姫に去られ傷心の帝は,姫が形見に置いて行った不死の薬ももはや不要だとして,それを天に最も近い駿河国の山で燃やすよう命じる。たくさんの士(つわもの)が命を受けて登り,薬を燃やしたので,その山を富士(不死と,多くの〈士〉に掛ける)と名づけ,その煙は今も山頂に立ちのぼっていると伝えられる。

 以上のことは多くの人がおおむね知っていることである。今私がここで皆さんに話したいことは、実は、かぐや姫の物語には実に驚くべき内容を含んでいるということである。
 かぐや姫に求婚する五人の貴公子は姫からそれぞれ難題を吹っかけられ、五人とも失敗するのだが、その中に中納言石上麿足(いしがみのまろたり)という人がいる。実在の人物である。壬申の乱のときに活躍している人で、何故この人がこの物語に出てくるのかは
謎である。このこと事態今後の研究課題だが、今ここではそのことは問題にしない。中納
言石上麿足(いしがみのまろたり)がかぐや姫から受ける難題のその中味である。「燕の巣にある子安貝というものをとってきてくれたら、結婚しましょう。」というのである。「燕の巣にある子安貝」というのが実は曲者で、どえらい内容を含んである。

 まずは子供の絵本から、中納言石上麿足(いしがみのまろたり)がその「燕の巣にある子安貝」を取りに行って失敗する場面を見ていただきたい。問題の注目すべき名場面である。何が注目すべきかというと、この場面の絵を適切に描いた絵本というのがなかなか見つからない。まあ、私は探し回ったわけではないけれど、本屋に行くたびにこの場面を探し続けやっと見つけたという代物(しろもの)である。岩崎書店に「復刊・日本の名作絵本(2002年)」というのがあって、そこに私のイメージする名場面が描かれている。まずはそれを見てもらいたい。

 さて、みなさん、この絵の中にありますが、子安貝とは、女性の性器そのものではありませんか? 一体全体、燕がもった子安貝というのは何を意味しているのでしょう?それでは、その謎に迫っていきたい。中沢新一によれば、その鍵はシンデレラ物語が握っているという。ここにその核心部分を紹介しておこうという訳だ。

 今までのところ発見されている世界最古のシンデレラ物語は、九世紀の中国で記録されたものらしい。その事実を発見したのは、明治時代の大博物学者・南方熊楠である。南方熊楠はこれを、九世紀に書かれた「支那書」の中に見いだしたのである。
 当時、ヨーロッパの学者の誰も、シンデレラの話が東洋に伝わっているなどとは思っていなかった。これはまぎれもない人類学上の大発見だったのだが、当時のョーロッパの学者は日本に学問があるとは思っていなかったから、南方熊楠の発見をさほど評価しなかったらしい。それがちゃんと評価されるまで、ずいぶん時間がかかっている。シンデレラ物語が,多少形を変えながらも,世界的な広がりをもって語られているということは驚き以外の何ものでもないが,その核心部分について,中沢新一は次のように言っている。すなわち、
 『 シンデレラの物語は人類的な古さを持つと同時に、資本主義の精神とも結びつきやすい、不思議な性格を持っています。
 しかしこのような民話を、もしも人生の最大目的を経済活動や社会的サクセスにおいたりしない人々が耳にしたら、いったいどう思うでしょうか。その人々は、きっとシンデレラ物語から資本主義的な汚れを洗い流して、元のもっと純粋な形に作り変えたいと思うのではないでしょうか。』・・・と。
 ここがシンデレラ物語に関して中沢新一のいちばん言いたいところであるようだ。シンデレラ物語から資本主義的な汚れを洗い流して、元のもっと純粋な形に作り変えればどうなるか。それが、「見えない人の話」である。
「見えない人の話」は中沢新一の「人類最古の哲学、カイエ・ソバージュ」(2002年1月、講談社)に詳しく載っているので是非読んでいただきたい。
 なお,中沢新一は,シンデレラ物語について,次のように言っている。この部分がもっとも核心的な部分であるの紹介しておきたい。すなわち、
 『 ここにはインディアンの結婚哲学が表明されていますが、その哲学はヨーロッパ版シンデレラにあらわれているそれとは、異質な考え方です。人類的な分布をするシンデレラ神話は、総力をあげて宇宙の重層的諸レベル間に仲介機能を発見しようとするもので、結末のハッピーエンドにしても、そうした仲介の一形態にすぎないものだったはずです。それがヨーロッパの民話に変形されると、ほかの仲介機能を、ただひたすらに社会的仲介機能である結婚のハッピーエンドになだれ込んでいこうとする傾向が、あらわれるようになってしまいました。そのために、神話の全編が「外見的なものへの欲望」によって汚さ 』・・・と。
 宇宙の神というのか天なる神というのか、私は「外なる神」と言っているのだが、そういう神と私たちは繋がっている。その繋がりをつけているものを「神と人とのインターフェース」と呼べば判りよいかと思うが、上記の文章では「仲介機能」と言われている。村のお祭りはひとつの「神と人とのインターフェース」であるが、結婚もそうだと中沢新一は言っている。私もそう思う。
 「神と人とのインターフェース」、それが結婚というものだ。そのことは是非覚えておいて欲しい。結婚というのは,ただ単に子供を産むためにするのではなく、そこには神話で語られるような深い意味があるということだ。結婚は神聖なものである。「外なる神」がちゃんと見ている。そのことを十分認識して欲しい。結婚というものは,神の前で,もちろん仏の前でも良いが,お互い相手を幸せにすることを「外なる神」に誓いながら式を挙げるものだ。派手な結婚式というものは如何なものであろうか? そして,男が女房に暴力を振るうことなんてもってのほかだ。私も若い頃,多少女房に暴力を振るったことがあるけれど,「外なる神」への誓いが足りなかったのかもしれない。今頃反省しても遅いのだが,それでも反省しないよりは反省した方が良い。
 女性は,宇宙からの波動によって、「外なる神」と共鳴することのできる存在である。私たち男性とはそもそも出来が違う。このごろはそう思いながら,女房の尻に敷かれるようになった。変身して恐妻家になったのである。女房は「お神さん」!「負けるが勝ち」ということもありますからね。それが何よりだ!ほんまでっせ!

私の電子書籍「祈りの科学シリーズ(4)」は、電子書籍ショップで購入していただけると誠にありがたいのですが・・・。
http://honto.jp/ebook/pd-series_B-MBJ-27435-9-124989X.html

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