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2012年10月15日 (月)

シヴァとディオニソス

シヴァとディオニュソス

 プラトンはまさに禅僧の言いそうなことを言っているが、そのとおりである。両頭截断して一階の恐竜型脳も三階の新哺乳類型脳もバランスよく働かせて、幸せな人生を生きていかなければならない。最初は何でも良いから美しい者を愛すれば良い。それを出発点として、ニーチェがいうように高みに向かって少しずつ階段を昇っていけば良い。いや、そうでなければならないのである。
 これを哲学的にいえば、私流の言い方であるが、理性的なものと理性的でないものとの統合、合理と非合理の統合が不可欠で、ニーチェはその統合を図れないまま悲運のうちに死んでしまった。私が「さまよえるニーチェの亡霊」というのはそのことである。ニーチェは非合理の世界の重要性に気づいていたからこそ、それをないがしろにするキリスト教と戦ったのである。キリスト教は本能的な生き方を否定するので、結局、社会の最高の価値が喪失する。社会の最高の価値観を喪失すると社会の勢いというものがなくなる。人々はやる気を失う訳である。それがニヒリズムだが、ニーチェは、当時のヨーロッパに 蔓延していたニヒリズムと戦ったのである。当時のヨーロッパの人々が沈滞ムードに陥っている、その諸悪の根源は、キリスト教という宗教にもとづく価値観だと考えていた訳である。
 ニーチェの考えをもっと正確に言うと、キリスト教により合理がはびこり、非合理がないがしろにされている。ニーチェは非合理世界の復活を図ったのだ。私は全く正しい認識であったと思う。ニーチェの考える非合理世界の神が「ディオニュソス」である。 アポロンとディオニソスはギリシア神話の神で、アポロンは「光の神」、ディオニソスは「酒の神」である。これをふまえて、ニーチェは、芸術を可能ならしめる根本衝動を、造形的で静観的なものと、音楽的で激情的なものに分けた。前者はアポロン的であり、後者はディオニソス的である。ギリシア悲劇のすぐれた芸術性はこの両衝動の対立と奇蹟的結合によって産み出されていた。全体的生命を肯定するディオニソスの態度は、ニーチェの理想であった。「驢馬の祭り」とは「ディオニュソスの祭り」のことである。

 「ディオニュソス」はもともとインドが源流の「シヴァ」である。長い歴史の中で、「シヴァ」がギリシャで「ディオニュソス」に変身したのである。したがって、「ディオニュソス」=「シヴァ」と考えてよい。「ディオニュソス」と対立する神が「アポロン」である。私は、上で「 両頭截断して一階の恐竜型脳も三階の新哺乳類型脳もバランスよく働かせて、幸せな人生を生きていかなければならない。」と申し上げたが、この文脈でいえば、両頭とは「アポロン」と「ディオニュソス」=「シヴァ」である。両者の統合を図らなければならない。すなわち、これからの哲学は、「陰と陽」、「善と悪」、「秩序と混沌」、「理性と衝動」「創造と破壊」、「愛情と性欲」等の問題は、すべて「アポロン」と「ディオニュソス」をどのように統合もしくは融合するかという問題である。私は、それらを統合もしくは融合する神が「エロスの神」だと思っているが、それについてはいずれ機会を見て書きたいと思っている。ここではニーチェの念(おもい)を遂げるため、「ディオニュソス」=「シヴァ」について勉強したいと思う。

 「ディオニュソス」を深く理解するためには、その源流をさかのぼって「シヴァ」を知らねばならない。幸い、「シヴァとディオニュソス・・・自然とエロスの宗教」(著者・アラン・ダニエル、訳者・浅野卓也と小野智司、2008年5月、講談社)という格好の本があるので、そこから最低限知っておくべきところを紹介しておきたい。
次のとおりである。すなわち、
『 反ディオニュソス的信仰が、アーリア人、ヘブライ人、アラブ人を問わず、かれら遊牧民の宗教の基盤となっている。(中略)それは忠実な信者のみを選別人種と考える宗教である。』
『 シヴァ教は本質的に自然宗教である。ディオニュソス同様、シヴァは、天界における神聖なヒエラルキーの諸相のなかの一点を表象し、このヒエラルキーは地上の生の総体に関わる。霊妙なる存在と有限の命をもつ生き物とのあいだに現実的な同盟関係を打ち立てることで、シヴァ教はつねに都市社会の人間中心主義に対抗してきた。シヴァ教の西洋的な形態としてのディオニュソス教もまた、人間が野生の世界、山や森の獣との交感状態にある段階を表彰するものである。
 シヴァと同様、ディオニュソスは植物の神、樹木とブドウの神である。また動物の神、とりわけ牡牛の神である。この神はわれわれ人類に、聖なる法をふたたびみいだすよう教え、人間の法を捨て去るよう諭(さと)すのである。魂と肉体の力の解放をめざすディオニュソス崇拝は、都市型宗教から激しい弾圧を受け、既存の社会に属さないアウトサイダーたちの異形の守護神として描かれてきた。(中略)しかしながら、シヴァ神の神秘的な呪力をまったく無視することはできなかった。都市を治める人びとに敵視されたにもかかわらず、シヴァ=ディオニュソス崇拝にはつねに一定の役割が与えられてきたといえよう。』
『 シヴァやディオニュソスの信徒は、人間より下位の存在と超人間的な存在とにひとしく生命を吹き込み、日常的な社会生活における政治的野心や種々の制約の拒絶をうながす聖なる力にじかに触れようとする。』
『 シヴァやディオニュソスの信仰は、復興するたびに都市から追放された。都市では、人間に法外な地域を与える信仰だけが認められ、その信仰は人間による略奪行為を容認し、神秘的な精霊界との直接の接触を可能にするあらゆる形式のエクスタシー体験を糾弾してきた。(中略)バラモン教、公式のギリシャ・ローマの宗教、ゾロアスター教、仏教、キリスト教、イスラム教のすべてのなかに、われわれは古代宗教の生き残りとの敵対関係を発見する。古代宗教の生き残りとは、おしなべて自然との愛とエクスタシーの追求に基礎をおくシヴァ教、ディオニュソス教、スーフィ教など神秘主義の諸宗教である。(中略)ヴェーダ教や仏教、そして後の時代のキリスト教やイスラム教の純潔主義からなんども打撃を被ったことで、シヴァ教は秘教の世界へと引きこもるようになり、今ではその奥義に近づくことは容易なことではなくなってしまった。』
『 教会という世俗権力と富をひけらかす権威主義的な支配者は、神秘主義であれ科学上の発見であれ、あらゆる探求に必要な「自由」とは両立しない存在である。教会は、神秘家と科学者をともに排除しようとする。』
『 アニミズム、シヴァ教、アーリア人の宗教、ジャイナ教という四つの主たる宗教思考の潮流は、後の時代のキリスト教がそうしたように、土着の神や伝統や信仰と結びつきながら世界中に広まった。それらの潮流は、ほとんどすべての現存する宗教形態の基層となっている。(中略)ユダヤ教、キリスト教、イスラム教もそこに基盤をおいている。』
『 東南アジア(カンボジア、ジャワ、バリ)でも、シヴァ教は文明のはじまりと密接なつながりをもつ。バリ島では、今でもシヴァ教がその宗教のきわだった特徴となっている。』
『 ディオニュソス信仰は、ディオニュソスが土着の神々に簡単に同化しただけに、いっそう容易にギリシャの風土に順応した。・・・というのも、ギリシャ神の儀礼は、古代トラキアの教慣習と数多くの接点をもっていたからで、そこには女性による狂乱儀礼もはっきりふくまれている。』
『ディオニュソス教とは、事実上、インド=地中海世界における古代シヴァ教にほかならず、世界がアーリア化されてからも次第にその地位を取り戻していった。この信仰は、それまでのギリシャ人の宗教経験をひっくりかえすようにして刷新し、ヘレニズム時代の精神土壌に深く根をおろしていった。』
『 紀元前4世紀にインドに居住していたギリシャ人メガステネスは、ディオニュソスとシヴァを同一視している。』
『 動物や植物や人間を見張るために、シヴァは「ヴィディエーシュヴァラ」(知恵の主)を創造した。かれらは森の精霊、サテュロス、ニンフ、妖精、守護天使、創造を守る精としてあらわれる。バシュパティはこれらの精霊の頭目で、自然界のあらゆる領域に精霊の姿を借りて出没する。シヴァは、山や森の中に住まう。そして神秘的な気配が感じられる森や山の洞窟や人里離れた場所には、シヴァのための聖域がもうけられ、供物が運び込まれる。』
(注:精霊については中沢新一のすぐれた研究があるが、シヴァ教の考えとは多少異なるところがある。それは、シヴァ教では精霊の頭目がいて、またその上にシヴァ神がいるという点だ。)
『 ディオニュソスは、パン、シレニ、ニンフなどさまざまな精霊に囲まれている。』
『 シヴァの象徴は、「リンガ」すなわちファロスである。ペニスは実際神秘的な器官である。あらゆる存在物の生誕をもたらすペニスを通じて、創造の原理は顕現する。(中略)ペニスとは、人間(或いは動物や草花)と神の本性たる創造の力とを結ぶ器官なのである。それは、もっとも完成されたまことのシンボルだと言えよう。』
『 シヴァは言われた。「わたしとファロスとは不可分である。ファロスとはこのわたしのことである。ファロスが信者をわたしのところに引き寄せるのだから、崇められなければならぬ。愛しい者らよ! 男根そそり立つところであればどこでも、たとえそこに、わたしをあらわす物がほかになかろうとも、わたしはそこにあるだろう。」(「シヴァ・プラーナ」)』
『 このファロス崇拝は、先史時代以降の地中海世界とヨーロッパの北部、また6世紀までのディオニュソス信仰に見いだされる。』
『 ディオニュソス教の狂乱儀礼は、タントラ儀礼に相当する。イニシエーションの力を通して、人間は、狂乱儀礼において直感的に知覚したことを明瞭に認識し、人間の本当のすがたを修得する。これこそが、天啓というものだろう。狂乱儀礼を通じて、人間はみずからの内外に諸々の力が存在することをはっきりと感じ取る。そして、まさにそのときこそ、ひとは、その原理を把握し、世界と神の本性を理解することができるのである。』
(注:天台宗の摩多羅神を祀っての狂乱儀礼とディオニュソスの狂乱儀礼が似ているように思われる。私は摩多羅神をエロス神と繋がると見ているが、当然、ディオニュソスもエロス神と繋がるに違いない。)
『 ディオニソス的な世界では、性的狂乱儀礼は、タントリズムのそれに呼応する実践を指す。それは一般的に集団儀式で、エクスタシーを覚える神がかりのダンス、性愛儀礼が執り行われる。インドのシヴァと同様、ギリシャのディオニュソスも、自然の神と性的狂乱の神という二つの顔を持つ。』・・・である。
「 シヴァとディオニュソス・・・自然とエロスの宗教」(著者・アラン・ダニエル、訳者・浅野卓也と小野智司、2008年5月、講談社)からの引用は以上であるが、ディオニュソスはまさに野性的というか本音丸出しの神であり、理性の象徴であるアポロンとはまったく逆の神である。

 プラトンは、エロスの神について形而上学的思考を重ねた哲学者で有名であるが、彼は、知識の源としての「バクティ」と官能的な「マニア」とを区別した。「バクティ」とは、サンスクリット語で、「献身」「信愛」「信仰」「神への愛」「帰依」を意味する言葉であり、「マニア」とは、マニアの語源はギリシャ語で「狂気」のことであり、自身の趣味の対象において、周囲の目をも気にしないようなところもある事から、「~狂(きょう)」と訳され、ほぼ同義のものとされている。
 さらに、 プラトンは、 官能的な「マニア」を、酩酊と陶酔のダンスを伴う「マニア」と性愛に結びつくエロチックな「マニア」に分けて考えた。前者の 酩酊と陶酔のダンスを伴う「マニア」は、ディオニュソスとより直接的なつながりを持つと見なした。 性愛に結びつくエロチックな「マニア」は、プラトンの活躍するころのギリシャでは、その元型をとどめていなかったのではないかと思われる。私の考えでは、シヴァ教に見られるような 性愛に結びつくエロチックな「マニア」 は、ギリシャではアポロンの影響をうけて野性味が削がれて、かなり理性的なものになっていたようだ。それが「エロスの神」であろう。「エロスの神」は、性愛の神でもあるが「愛」の神でもある。「愛」は、真・善・美の世界に到達しようとする最も高次元の概念で、理性そのものである。

 私は、従来、シヴァとディオニュソスは同じであるとして説明してきたが、厳密にいうと、少し異なる部分がある。 酩酊と陶酔のダンスを伴う「マニア」に関してはまったく同じ。しかし、 性愛に結びつくエロチックな「マニア」については、シヴァは元型そのまま、ディオニュソスはアポロンの影響を受けてかなりマイルドになっている。そのようにお考えいただきたい。

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